[卒業旅行エッセイ]武井雄太郎のひとりアメリカ縦断紀

0
495

慶應NYまで巽先生に会いに行く

ボストンのお次はニューヨーク、と普通の人は行くだろうが、僕には一つ幸運があった。それはゼミでお世話になり、現在は名誉教授になられた巽先生が、ちょうどホワイトプレーンズにある慶應義塾ニューヨーク学院の学院長をしているということであった。やや外れにあり車がないと行けない場所ではあるが、ボストンからニューヨークへ南下する際には途中にあり非常に好都合であった。

巽先生とは一年だけしかキャンパスでお世話になる機会はなかったが、最初のゼミ面接というのを僕は非常によく覚えている。当時人気あった巽ゼミに入れてもらうアピールのつもりで、僕はゼミ面接でかつて自分が書いたアメリカに関する駄文のエッセイをいきなりその場で手渡したのだ。それからというものの、果たしてこんなに忙しい大先生が読んでくれるのか、下手なことを書いてしまってはないだろうか、これがきっかけで嫌われないだろうか、と心配でしょうがなかった。しかしながら巽先生はわずか1週間後のゼミ歓迎会で「この中に武井君はいるかな。読んだよ、よかった。」とわざわざ皆の前で褒めてくれたのだった。そんな巽先生と慶應の学生生活を締め括る今回の卒業旅行で再会できるというのは、僕にとってはこれほどない幸運であった。

ボストンのSouth Stationを鉄道で発ち、およそ3時間ほどしてスタンフォードという東海岸沿いの駅についた。そこからUberを呼び寄せ、30分くらいで慶應ニューヨークへついた。学院は慶應という雰囲気にも、ニューヨークという雰囲気にも似つかわしくない郊外にあった。

大学のキャンパスのようになだらかな土地に広がるニューヨーク学院であったが、どこが入り口であるのかもわからず、5, 6分ほど学院のキャンパスを彷徨った。それにしても地球の反対側に慶應がこれほどまで大きな施設を構えているというのは驚きであった。高校でしかないというのが惜しいほどであった。

しばらくして玄関らしきところを見つけ向かうと、そこに巽先生はセーター姿で立っていた。3ヶ月ぶりに会う巽先生は「よく来たね」と言ってにこりと笑ってくれた。

今回はご好意に甘えて慶應ニューヨークに泊まらせてもらうことになっていた。先生は普段から学院内に暮らしているとのことだったが、その部屋の中には入れ子状にもう一つ部屋があり、そこが今回の自分の部屋だった。バスルームまで個別で完備されており、この辺りはさすがアメリカの施設であった。その後は、巽先生と小谷真理先生に連れられ、ジープに乗ってホワイトプレーンズにあるスーパーを3軒ほど巡った。途中、巽先生は「そういや、君の書いた本はちゃんと保管してあるよ」と言ってくれた。保管してくれていることもさることながら、本とは呼べない駄文の作文を「本」と呼んでくれたことに嬉しさを感じた。そしてその晩は小谷先生が振る舞ってくれた手料理とワインを心ゆくまで愉しんだ。

翌日は朝から、慶應ニューヨーク学院内を先生に案内してもらった。学院の周りには噴水のある池を囲むように道が走っており、それは卒業前に書籍を借りに訪れたSFCを彷彿とさせた。慶應の一貫校生に共通して言えることだが、ここの学生も社交的によく訓練されていると感じた。勉強している学生を食堂で見かけたが、学院長といると不自然にならぬ程度にこちらを見て、先生が立ったと見れば、ニコニコと会釈してくるような可愛らしい学生達であった。

ニューヨークへ発つ直前、先生ご夫妻と慶應ニューヨークの外へ出て向かいにあるマンハッタンビルカレッジを訪れた。1時間ほどかけてぐるっと周り、マンハッタンビルカレッジから慶應ニューヨークを見下ろした。暮なずむ夕日が学院を赤く染め、学生たちがサッカーに興じているのが見えた。巽先生と眺めるその夕暮れの光景は、同期と遅れたために卒業式に参加しなかった自分にとって、慶應での学生生活を締め括るのに最も相応しく印象的なシーンであった。

夜6時過ぎであったが、帰りは先生ご夫妻に車でホワイトプレーンズ駅まで見送ってもらった。駅で先生とどのホームか迷っていると、通りがかりの若い黒人が「こっちこっち」と手を招いてホームまで導いてくれた。ホームに上がり、駅で待っていると今度は知らない女性がまた「これはマンハッタンに行く電車?」と尋ねてきた。気づけばこの辺りはボストンとは違う国民性だと感じた。これから向かうのが世界の首都であるという予感を感じながら、このハーレム線がニューヨークに続いているという事実に全身で高揚感を感じていた。

ニューヨークへ行く

都市を移動するという経験は興味深い。マンハッタンの北部あたりから地下に潜った鉄道は、20時ごろにニューヨーク中心部のグランドセントラルステーションに到着した。かつて一枚の岩盤の上にオランダ人が築いたというマンハッタンという街は、経済的にも文化的にも世界の中心になっているだけでなく、常に170の言語が話されているなど名実ともに世界の首都である。その岩盤から生えるようにして上へ上へと伸びている摩天楼のビル群は、漆黒の闇に挑戦するかのように、そのビルの先端を突き刺していた。それは移民大国でありながら、わずか300年で世界唯一の超大国になったアメリカの野心を象徴するかのように思われた。

今回のステイ先はマンハッタンのやや南部、グラマシーと呼ばれるエリアにあった。スーツケースをゴロゴロ弾いていると、走っているタクシーがクラクションを鳴らしながら、止まるかと思えるほどのスピードで減速して近づいて通り過ぎていく。手で「いらない」と伝えると頭にターバンを巻いた運転手がニコニコしながら過ぎ去っていく。ニューヨークはそういう街であった。

女優の家に泊まる?

今回のホストは身の危険を案じてか実際にゲストと会うまで住所を教えたくないとのことだった。不安げな面持ちでユニオンスクエア近くのベンチで待っていると、ホストらしき女性がかなり遠くの方からHiと言いながら近づいてきた。もっともこの身辺調査は形式的なもので、すぐに近くにあったアパートメントに案内してくれた。元は馬小屋だったというアパートメントの一階は奥に長い作りになっており、中に入ると細長い廊下があるばかりで、その奥に部屋が一つあるというだけであった。それでは僕はどこに寝るかというと、廊下にあるソファに寝るということであった。それでもそのソファの周りにはカーテンがくるりと張ってあり、さらにすぐそばの窓からは庭が見えるという、大都市マンハッタンの中の隠れ家といった風情であった。

右手がソファベッド。寝るときは一応そこをカーテンで囲みプライベートを担保する。

もう時間は夜9時過ぎであったが、彼女はコーヒーをウェルカムドリンクとして差し出してくれた。初めて会う人の家に泊まるというのは緊張するが、Airbnbでホストをやっているような大抵のアメリカ人は、こちらの拙い英語も汲み取ってすぐに打ち解けてくれる。ちなみに彼女がはじめ住所を教えるのをためらったのは、彼女がバーレスク女優としてそれなりに名を馳せているからだということだった。アメリカで最初にバーレスクを持ち込んだのが自分だとも言っていたがこの辺りは定かではない。(そもそも彼女が説明していたところのバーレスクがなんなのかは理解していない)

MoMAに飾ってある若かりし頃の彼女の写真

また彼女は政治が好きだというので、自分の特技であるアメリカ大統領を全て諳んじてみせるということをやってあげると、彼女は嬉々として「どの大統領が一番か?」と聞いてきた。試しにポリコレ的な文脈でも無難だと思われたオバマ大統領と答えてみると、彼女はアイビーリーグを出ていないバイデン大統領こそが真の大統領だと主張してきた。この奇妙にも聞こえた主張の裏には、彼女が読字障害のために大学を出ていないこと、そしてそれが理由に学歴コンプレックスを抱えていたという、自分がかつて抱いていたユダヤ人のステレオタイプとはかけ離れた人物像があった。

ニューヨークには5日ほど滞在したが、彼女が大変に魅力的で(また少し変わっていて)面白かったために、毎日昼過ぎくらいまでは部屋で喋り、昼ごろからの半日観光へと繰り出した。旅の疲れが出ていた頃であり観光の足取りも鈍くはあったが、オフシーズンであったためか大体の見所は回ることができた。強いて言えば、MoMA・ニューヨーク現代美術館はオーディオガイドを借りて丸一日くらいいても面白いと思った。

部屋の窓から見える景色。リスが3匹ほどこの庭には生息している。

それにしても見ず知らずの人を家に置いておくというAirbnbのシステムはアメリカにおいてよく成り立つなと感じさせられる。ゲストがシリアルキラーの可能性はないにしても、物を盗むというくらいはありそうであった。現にこのNYのAirbnbではホストが自分の部屋にこもっている間、廊下で寝ているゲストの自分がキッチンやバスルームなど部屋全体の所有者になる。毎回ホストの方が気を遣ってドアノックして部屋から廊下へと出てくるのはおかしい話であった。

最終日の夜は彼女と一緒にマンションの地下にあるという100年前にあったワイナリー跡を探索しに行った。地下はスマホのライトでは奥まで照らせないほど広がっており蜘蛛の巣が至る所に張られていた。ホラー映画が好きな彼女は先へ先へと進みながら「考えてみればこのマンションも200年近い歴史があるのだから幽霊がいてもおかしくはないよね」と真顔で怖いことを言うのだった。

本場のブロードウェイミュージカルを鑑賞

なんといってもニューヨークで一番楽しみにしていたのは、ブロードウェイミュージカル「ハミルトン」である。ホストや巽先生もハミルトンを観る予定だと言うと目を丸くしてチケットを取れたことを驚かれた。一時期はチケットも10万近くと高騰したが、おひとり様であったためか30000円で売り出されていた席に滑り込むことができた。ブロードウェイで今一番ホットだというだけあり、席が余っていたとしても当日券は売り出されてないようだった。

表題になっているハミルトンは『建国の父』の一人である。彼は西インド諸島で婚外子として生まれ、孤児として建国前のアメリカに貧しい身としてやってきた。そこから才覚ひとつで身を立て、独立戦争を通してワシントンの厚い寵愛を受けるようになる。やがて彼は合衆国憲法の起草を担うまでに成り上がったが、悲劇の末に政敵に殺されてしまうという彼のそんな人生を追ったミュージカルである。

しかしながら人種や音楽などは当時の時代とは全く異なる。異なると言う以上に好対照を見せているほどの換骨奪胎が施されていた。まず白人の偉人などは決まってほとんとが黒人やアジア人など当時におけるマイノリティによって演じられ、音楽なども強いビートに乗って現代的なラップ調で持って語られる。

特に黒人演じるジョージワシントンが登場したときのボルテージの上りようと行ったら凄まじいものがあった。中には感情を抑え切れず途中でスタンディングオベーションを始めるものも多くいた。最後カーテンコールで拍手をしながら、僕は大きなものに包まれるような気持ちを感じていた。それは人種差別が当たり前であった当時のアメリカを人種や音楽など現代的な文脈に置き換え表現し、なおもそこに息づくアメリカ建国の精神と理念、そしてそれに21世紀のアメリカ人が熱狂するという構図に思わず胸を熱くしていたのだった。

(ワシントンDCへと続く)

返事を書く

あなたのコメントを入力してください。
ここにあなたの名前を入力してください