[巽孝之氏エッセイ 2022]アメリカの夢、日本の夢-

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アメリカの夢は日本の夢と、たえず鏡映しの関係を結んでいる。

 2019年に慶應義塾アメリカ学会初の国際シンポジウムを「脱アメリカ的アメリカ研究」(Transnational American Studies)のヴィジョンの下に開催し、のちの 2020年に学会誌創刊号 Journal of Keio American Studiesを刊行した時、イメージとして抱いていたのは、ハーマン・メルヴィル(1819-91)とジョン万次郎(1827-98)、ラナルド・マクドナルド(1824-94)と福沢諭吉( 1835-1901)の視線が交差する言説空間だった。

Journal of Keio American Studies 創刊号

脱アメリカ的アメリカ研究とは何か。百年余り前にランドルフ・ボーンが夢想した「トランス-ナショナル・アメリカ」( 1916年)は、「人種のるつぼ」は否定しても「人種のサラダボウル」に象徴されるコスモポリタニズムを提唱し、アメリカ国家の理念「多様の中の統一」とも矛盾しない概念だった。それが今日では、それも 9.11同時多発テロ以降、アメリカ国家外部によるアメリカ観がアメリカ研究において大きな意義を持つようになっている。げんに、私が 2009年から編集委員を務めているアメリカ西海岸の学術誌 Journal of Transnational American Studies(略称JTAS)は、スタンフォード大学教授シェリー・フィッシャー・フィッシュキン教授の提唱のもと、ジョージアのケネソー大学教授ニーナ・モーガンが編集長を務めていたが、現在では、前掲シンポジウムのために招聘したドイツはマインツ大学オバマ研究所(つまりアメリカ研究所)のアルフレッド・ホーヌングが新編集長に就任した。ニーナはオバマ第 44代大統領がアメリカ独立革命以来の理念以上にアフリカのネルソン・マンデラの影響下にあったことを主張し、アルフレッドはそもそもアメリカ建国の父祖たちの思想が中国は儒教の影響下にあったことを証明する。したがって、米国では最も先端的なアメリカ研究学術誌JTASが、ヨーロッパのアメリカ研究の拠点によって編集され、去る 11月初旬には、まさにフランスとアフリカ、カトリシズムとヴードゥーが入り混じる深南部はルイジアナ州のクレオール都市ニュー・オーリンズで開かれたアメリカ学会年次大会でその編集委員会が開かれたのだから、これこそ脱アメリカ的アメリカ研究を体現する活動というべきか。

実は慶應義塾ほどに、こうしたトランスナショナリズムにふさわしい学府は存在しない。自身が捕鯨船平水夫の経験を持つアメリカ国民作家メルヴィルは代表作『白鯨』(1851)の中で、「仮にあの二重にかんぬきのかかった国・日本が外国に対して胸襟を開くようになるとすれば、それはひとえに捕鯨船の恩恵によるものだろう」と述べたが、その二年後の 1853年にペリー提督率いる黒船艦隊が来航し、日本は鎖国の解除を迫られる。翌年 1854年に福沢諭吉は長崎で蘭学の手ほどきを受け55年には大阪で緒方洪庵の適塾に入り、58年には中津藩の命により、江戸で佐久間象山の影響を受けた蘭学塾「一小家塾」の講師を務めるが、これが慶應義塾の原型を成し、同年が義塾発足の年と見做されるに至る。

 だが、翌1859年に横浜へ赴いたところ、オランダ語が通じず、これからは英語の時代だと実感し、ペリーらとの交渉で活躍し幕府お抱えの通訳を務めていた森山栄之助に英語を習う。そして 1860年に、勝海舟やジョン万次郎らと共に咸臨丸に乗り、アメリカ合衆国を初訪問するのである。



 さて、ここで肝心なのは、もともと土佐からの漂流民として 1841年にアメリカに渡り、命の恩人たるジョン・ハウランド号のウィリアム・ホイットフィールド船長の厚意で長くアメリカ生活を送った中浜(ジョン)万次郎とは逆に、 1848年には日本への夢を募らせて北海道沖で捕鯨船から離脱し、鎖国時代の利尻島に漂着したアメリカ原住民ラナルド・マクドナルドがいたことだ。同じモンゴロイドとして、彼は極東に祖先の夢を見た。その結果、彼は松前藩から長崎へ送られ、収監されながらも森山栄之助らに英語を教え、日本初の英語教師となった。このマクドナルドの日本航海記こそは、メルヴィルが『白鯨』を書くときに座右に置き、前掲引用のような記述を行うに至った種本である。そしてマクドナルド最大の弟子が森山だったわけだから、福沢先生はその孫弟子にあたる。メルヴィル、万次郎、福澤、マクドナルドという四者の人生は、一見バラバラのようでいて、実は細部で相互に絶妙な絡み合いを見せる。ゆえに慶應義塾アメリカ学会学術誌(JTASに倣い、略称JKAS)創刊号の表紙は、文人の似顔絵を得意とする YOUCHANに依頼し、これら四者が ZOOM会議を行い、福沢先生の語りを、他の三者がミュートして傾聴しているという構図があしらわれている。そこではは、アメリカの夢と日本の夢が交錯する瞬間が、掬い取られている。

『慶應義塾とアメリカ 巽孝之最終講義』発行:小鳥遊書房

   2020年9月にこのJKAS創刊号を出し、その時に凝縮されたコンセプトに基づき 2021年 3月に 本塾最終講義「最後の授業――慶應義塾とアメリカ」を行って、私の 38年間に及んだ慶應義塾における教育研究生活は終了し、定年退職を迎えた。英米文学専攻における 38年間、私はアメリカ文学と批評理論を担当し、自身の研究分野における単著としては 26冊を刊行するとともに、 1990年以来、 400本もの卒業論文と 40本を超える修士論文、 20本を超える博士論文を指導してきた。博士論文を仕上げるに至った教え子は、そのほぼ全員が大学教授になっている。そして、 2017年には、長年の夢だった慶應義塾におけるアメリカ研究の拠点を慶應義塾アメリカ学会を立ち上げた。慶應義塾の名の下で、私はもうやれるだけのことをやったという解放感に浸っていた。




 そして4月から始まる、名誉教授としての気楽な年金生活を待ち受けるばかりだった。


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……そう、たしかに「待ち受けるばかり」のはずだった。

実際、2021年4月に入ってからは三田の授業も非常勤で週2コマだけになり「なかなか年金暮らしもいいもんだな」と呑気に過ごしていたのだから。

全 38年間の慶應義塾勤務のうち、初期のコーネル大学大学院留学の三年間を除くと、2009年にたった半年サバティカルをいただけたにすぎないので、これから数年はしばらく休養し、一種の「ロング・サバティカル」として羽根を伸ばす気満々だった。

折しも、八ヶ岳別荘には新書庫を建設中で、研究室の中を埋め尽くしていた書籍類、資料類は全てそこへ移し、しばらくはそれらの整理を楽しむ予定だった(このプロジェクトは、実際に院生諸君のおかげで 2022年8月に研究室内荷物をまとめた段ボール箱156箱を別荘新書庫へ移し書架へ収めるという形で、第一段階が終了した)。

巽先生の書庫

ところが、そんな隠居生活が始まって早々、昨年5月末に、新塾長の伊藤公平氏(理工学部教授、量子コンピュータとナノテクノロジーの専門家で、『わが上海』)著者の伊藤恵子氏の甥)から電話がかかり、「ちょっと驚かれるかもしれませんが」という前フリ付きで慶應義塾ニューヨーク学院長着任の話が降ってきた。常任理事会ではすでに承認済みという。推挙の理由は、前任者の英国人ラルフ・タウンゼント氏がイギリスのパブリック・スクールの流儀(『ハリー・ポッター』!)で教育を徹底しようとしたところ、慶應スピリットが希薄化してしまったこと、アメリカ人教職員と意見の不一致を見たこと、それに学院長だというのにコロナを口実に一年間、全く渡米もせずニューヨークに来なかったことらしい。

かくして、現執行部は2022年よりニューヨーク学院に不可欠な条件として、バイリンガル、バイカルチュラルのみならず「日米慶應の三大文化( Triculture)」という新しい理念を編み出し、私はその促進と実現を任されたというわけだ。

長くアメリカ研究に携わってきた専門家としては、たとえコロナ禍であっても、再びアメリカ生活を送るチャンスは、かけがえがない。

しかも、 1980年代にはニューヨーク州イサカにあるコーネル大学大学院で博士号請求論文を書き続けていたのだから、まさにこれはニューヨークへ還る道筋にほかならない。かくして、L1ヴィザ取得の手続きで思いのほか手間取ったとはいえ、 2022年元旦より、 1990年の二瓶初代学院長から数えて第十代目の慶應義塾ニューヨーク学院長に就任した次第である。そして、この一年間で、学院にはそれまで存在しなかったという学園新聞 Keio Journalと、これも前代未聞という教員中心の研究紀要Keio Research Reviewを創刊し、学外から著名な学者研究者や作家、芸術家を招聘するオムニバス “Triculture”講演シリーズを開始した(詳細はニューヨーク学院ウェブサイト参照:https://www.keio.edu)。そうした新基軸が、私が三田時代に長く携わってきた学術研究のノウハウを学院経営に転用することで成立したことは、なかなか興味深い。

近隣のHackley Schoolに伊藤公平塾長と表敬訪問に訪れた際の写真

  ふりかえってみれば、慶應義塾のみならず近代日本の父とも呼ばれる福沢諭吉先生は、文字通り日米を横断する知識人だった。彼は1860年と 1867年の二度にわたって訪米し、その折にジョン万次郎と共に、ノア・ウェブスターゆかりの英語辞典を購入したことにより、トマス・ジェファソン起草になる「独立宣言」(1776)の本邦初訳を成し遂げている。さらに先生は 1890年代にハーバード大学ゆかりの学者たちを少なからず日本へ招聘するが、その中にはアーサー・メイ・ナップ師のみならず、黒船で日本を開国させたマシュー・ペリー提督の甥の子に当たる英米文学者トマス・サージェント・ペリー教授も含まれていた。このようにして、福沢先生が抱いたアメリカの夢は、実に巧みにアメリカ的民主主義を日本文化に根付かせ、その結果、百年後をとうに過ぎた 21世紀現在には、世界がクール・ジャパンの名の下に日本の夢を見るような世界が訪れたのだ。

 そうしたパラダイム・シフトの契機を 1970年代以降の高度成長期や 1980年代のバブル景気前夜に求めるならば、北米における日本企業の駐在員増大を受け、とりわけアメリカ在住の塾員の中に、是非とも母校の分校を建立しそこに子弟を通わせたいという声が高まってきたのは、必然だった。そうした要望を受け止めたのが、当時の石川忠雄第15代塾長(1922-2007)である。現在の塾長は最大でも二期 8年間が任期の限度であるが、第4代の鎌田栄吉(1875-1934)のように、 1898年から 1922年まで6期 24年間を務め、史上最長政権を誇る塾長も存在した。そして石川塾長は1977年から 93年までの 4期 16年間を務めており、歴代第二位の長期政権となった。この期間に、大学改革を睨み、未来を主導する湘南藤沢キャンパスと共にニューヨーク学院の開設を準備し、1990年には実現してしまったのだから、まさに学校経営者の鏡であり先覚者であろう。

 現代日本史をふまえた考現学の脈絡では、石川塾長の本塾拡張主義政策はまさに高度資本主義がエスカレートしたバブル時代だったからこそあり得たもののように見える。そしてバブルの泡が弾けた果てに待っていたのは、それこそオウム真理教の悲劇的末路のみならず、まさにバブル崩壊後に就職大氷河期を経験したロスト・ジェネレーションと呼ばれる世代(1970-82年生まれ)の苦境だった。その意味で、この時代ははなはだ評判が悪い。だが、バブル時代に莫大な資産運用が可能だったからこそ実現した、極めて高い志の夢も少なくない。その一つが、ニューヨークにおけるリベラルアーツ・カレッジの代表格マンハッタンヴィル・カレッジから領地の部分を譲り受けて建設された慶應義塾ニューヨーク学院だったとすれば、それはかつて福沢先生が抱いたアメリカの夢、しかも存命中にも次の世紀にもまさか実現するとは夢にも思わなかったアメリカの夢の具現化だったろう。そして現在、 21世紀には幾何級数的に増えた北米における優秀な日本学者たちを交え、慶應義塾という触媒においてアメリカの夢と日本の夢がスリリングに交差し、脱アメリカ的にして脱日本的な、全く新しい夢が生まれるのを、われわれは固唾を飲んで見守っている。

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