[西山祥・映画批評2022]Ba. Nishiyama or: How I Learned to Stop Working and Love the Film

巽ゼミ30期OG・パニカメ25号編集長の西山祥さんによる映画レビュー企画・第二弾!!キングコング=巨大猿を"見つめる"ことで、「アメリカの夢」(Panic Americana27号テーマ)に潜む「欲望」を暴き出した力作。氏の昨年の論考「『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)~ハードボイルド・女性性賛歌としての可能性~」とあわせてどうぞ!!

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コングと男同士の絆

そうは言っても、最終的にコングはニューヨークに連れてこられてエンパイア・ステート・ビル(1976年版ではワールド・トレード・センター)に上ったところを撃墜される運命にあり、彼がいくら特別な感情をヒロインに抱いていたとしても、ヒロインは髑髏島での苦境をともに乗り越えて相思相愛となったジャックと結ばれる。見世物としてのコングが最期を迎える瞬間は、デナムの映画に求められていた「ロマンス」が達成される瞬間でもあるのだ。ここで、アンとジャックとコングが三角関係にあることは明らかであるが、果たして、コングに惹かれているのはヒロインだけなのだろうか。

1933年版の三角関係に目を向けてみよう。女性を船に乗せたことがないタフガイの船員ジャック・ドリスコルは、デナムにスカウトされて乗船したアンと甲板で出会う。ジャックははじめ、女性が船に乗っているという事実そのものに辟易し、“Women can’t help being a bother. I guess they’re made that way.”と、特に理由もなくアンを厄介者扱いする女性嫌悪的一面をもつが、彼女にほほえみを向けられると彼の態度はたじろぎに変わり、しだいに軟化する。監督のデナムは髑髏島上陸後、一心不乱でコングを撮影し、コングを生け捕りにして見世物にすることに執心するあまり、アンが犠牲になっても仕方がないと考えている。このデナムの考えをはっきりと拒否するのは一団の中でジャックのみである。アンがさらわれ、撮影隊がコングを捜索する際も、ジャックは単身でアンを助け出す。ニューヨークに戻った二人は、結婚の約束を交わしたことを記者たちに告げ、カメラのフラッシュがいっせいに焚かれる。これに刺激されたコングが鎖を解いてアンを連れ去りビルに上った後、アンを救うために飛行機を投入しようと提案するのは、ほかならぬドリスコルである。“Air planes. The army planes from Roosevelt Field. They might find a way to pick him off without touching her.”

このように、巨大猿と男性との関係は、奪われたヒロインを奪い返すという行為を介して成立する。のちになって制作された2つのリメイクでは、彼らの関係は男性同士の「絆」や「理解」により密接に結びついたものになっていく。1976 年版のジャック・プレスコットは古生物学者として、種の保全や動物倫理の観点からコングの動きをある程度理解しようと努め、保護しようとする。彼は唯一、コングがなぜワールド・トレード・センターに上りたがっているのかを突き止めた人物でもある。2005年版では、ジャック・ドリスコルはデナムが作る映画の脚本家として登場する。作中で彼が書く脚本はもとより、彼は「キング・コング」という映画全体を文字通り倫理的に正しい方向に導く役割を担う。彼は髑髏島で恐竜の群れに向かって発砲する船員に「銃を撃つな」と叫び、ニューヨークでアンとコングを追ってビルに上る。コングが落下したあとは、悲しみ泣き崩れるアンを胸に受け止める。キングコングシリーズ全体の作中世界の「正しさ」は、ジャックに依って立つ。ジャックは、モラル・コンパス(道徳基準)の役割を担い、コングとともに一人の女性を奪ったり奪い返したりすることで、コングと深く結びついているのである。

Gail Bederman
Manliness and Civilization: A Cultural History of Gender and Race in the United States, 1880-1917

ゲイル・ベダーマンのManliness and Civilization: A Cultural History of Gender and Race in the United States, 1880-1917 (1995) は、アメリカ史における「男らしさ」の変遷を見つめる。急速な工業化と都市化によって中産階級が生まれた1820年から1860年ごろのアメリカにおける「男らしさ」は、ヴィクトリア朝風の、文化的に洗練された男性や勤勉な男性を指した。しかし、1890年から1910年ごろになると、不況により中産階級の経済能力が低下したことで「男らしさ」に変化が訪れる。中産階級の男性はボクシングなど、労働者階級の「プリミティヴ」な文化に近づき、このころから「マスキュリニティ」という新たな男性性を意味する言葉が使われ始め、1930年代にはこの言葉が「果敢な精神、肉体的強靭さ、男っぽいセクシュアリティ」を指すようになる。ベダーマンは、「マスキュリン」で「自然体の男性」性を象徴するものとして、ターザンを例に挙げる。白人であるとともに猿人であり、文明的であるとともにプリミティヴでもあるターザンは、より新しい男性性をもつ自然児なのである。

イヴ・コゾフスキー・セジウィック
『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』

従来のヴィクトリア朝的、文化的男らしさから、自然体に近いマスキュリンな男性性へと「男らしさ」の意味が変化を遂げたまさにこの時代に、「キング・コング」(1933)が公開された。これを踏まえて、ヒロインをめぐる三角関係に話を戻すと、コングは自然に限りなく近い「マスキュリンな」男性性をもつと言える。これに対して、女性嫌いなタフガイの船員ジャック・ドリスコルは、彼をライバルとして、一人の女性を奪い、奪い返すプロセスを繰り返す。ジャックはこのとき、正真正銘・自然のマスキュリニティをもつコングに惹かれているのではないだろうか。イヴ・コゾフスキー・セジウィックの『男同士の絆:イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(1985)にあるように、男性同士が一人の女性をめぐるライバル関係にありながら女性嫌悪的な、同性愛好的(ホモソーシャルな)社会を形成する。この結びつきは、同性愛的でありながら同性愛者と呼ばれることへの恐怖を生み出し、同性愛嫌悪的な風土を作り出すが、コングとジャックの間にホモセクシュアル的な要素を見出すことも可能であろう。

アメリカの夢

すでに述べてきたように、見る主体/見られる客体の構造の中で、キングコングとヒロインは共通して白人男性によって「見られる側」であり、常に見世物文化において消費されてきた犠牲者である。このような構造は1975年のローラ・マルヴィによる論考”Visual Pleasure and Narrative Cinema”(Screen)において、おそらく最初に指摘された。マルヴィは、フィルム・ノワールやヒッチコック映画の多くに登場する、男性から女性への「のぞき見趣味」的な性的欲望に着目し、フロイトやユングの精神分析学的見地からこれを分析した。これに対してニール・スティーヴンは、男性によって男性に向けられるサディスティックな眼差しに同じ欲望を見出し、男性もまた性的に「見られる」対象として客体化されていると主張する。例えば主人公と宿敵との間で行われる撃ち合いや格闘などのバトルシーンにおいて、男性の身体が他の男性の視線にさらされているにもかかわらず、これが表立って注目されることがないのは、映画の観客が主に男性であるからである、とスティーヴンは述べる。(Masculinity as Spectacle: Reflections on Men and Mainstream Cinema, 1993)。このようにして、男性から男性へ向けられたホモセクシュアルなまなざしは、映画自体の観客である(と想定されていた)男性たち自身のホモセクシュアリティを隠ぺいするため、秘匿されてきたのである。

見世物としてのコングを見にブロードウェイ・シアターに集まった作品世界の観客も監督デナムも、そして、「キング・コング」を鑑賞する我々も、みんな自然児コングのマスキュリニティに惹かれている。我々の内なる欲望は、未知の世界から来た恐ろしくて珍しいモンスターを見てみたい、というオリエンタリズムに根差した好奇心にとどまらない。コングがアンを鷲掴みにするとき、その大きく見開かれた目と鼻孔をどんな距離感からとらえるか。むき出しになった歯はどんな形をしていて、吠え声はどのように喉の内側を震わすか。その厚い胸板や隆起する肩の筋肉がどのように上下するか。そして、ニューヨークでエンパイア・ステート・ビルから落下するとき、黒々としたその両腕はどのように空を掴むか。観客は、自然児コングのマスキュリンな魅力を、サディズム的欲望をもって見つめる。アメリカの夢がもつ、見たい、見せたいという欲求は、弱者を見世物にする暴力性を持つとともに、我々が内に秘めたる性的欲望の類義語なのである。

 

Bibliography

Bederman, Gail. Manliness and Civilization: A Cultural History of Gender and Race in the United States, 1880-1917 . U of Chicago P, 1995.

Carrol, Noël. The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart. Routledge, 1990. 高田 敦史『ホラーの哲学 フィクションと感情をめぐるパラドックス』フィルムアー ト社、2022。

Mulvey, Laura. “Visual Pleasure and Narrative Cinema. ” Screen, Volume 16, Issue 3, Autumn 1975, Pages 6–18, doi.org/10.1093/screen/16.3.6.

Twelve Monkeys. Directed by Terry Gilliam, performance by Bruce Willis, Brad Pitt. Universal, 1995.

Sedgwick, Eve Kosofky. Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire. Columbia UP, 1985. 上原早苗ほか訳『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャ ルな欲望―』名古屋大学出版会、2001年。

Steve Neale. “Masculinity as Spectacle: Reflections on Men and Mainstream Cinema,” Screen, Volume 24, Issue 6, Nov-Dec 1983, Pages 2-17, doi.org/10.1093/screen/24.6.2.

大和田俊之「ハリウッド・ゴシック――1930年代のホラー映画に見る恐怖の構造」、『アメ リカン・テロル―内なる敵と恐怖の連鎖』下河辺美知子編著。彩流社、2009年。

小谷真理『女性状無意識(テクノガイネーシス)――女性SF論序説』勁草書房、1994年。

笹川慶子「男らしさの表象:ヴィクトリア調の身体とアメリカニズムの身体-フレッド・ア ステアとジーン・ケリー」、『映画学』14 109-120頁。早稲田大学映画学研究会、 2000年。hdl.handle.net/10112/6665

Studio28編著『モンスターメイカーズ : ハリウッド怪獣特撮史』洋泉社、2000年。

巽孝之『アメリカ文学史 駆動する物語の時空間』慶應義塾大学出版会、2003年。

—. 『恐竜のアメリカ』ちくま新書、1997年。

西山智則『エドガー・アラン・ポーとテロリズム 恐怖の文学の系譜』彩流社、2017年。

Information

西山祥さんTwitterアカウント:https://twitter.com/shoooo0000o
西山祥さんの卒業論文(巽ゼミHP):http://www.tatsumizemi.com/2021/03/2020_14.html
巽孝之先生による西山卒論講評(巽ゼミHP):
http://www.tatsumizemi.com/2021/03/2020_14.html

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