[西山祥・映画批評2022]Ba. Nishiyama or: How I Learned to Stop Working and Love the Film

巽ゼミ30期OG・パニカメ25号編集長の西山祥さんによる映画レビュー企画・第二弾!!キングコング=巨大猿を"見つめる"ことで、「アメリカの夢」(Panic Americana27号テーマ)に潜む「欲望」を暴き出した力作。氏の昨年の論考「『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)~ハードボイルド・女性性賛歌としての可能性~」とあわせてどうぞ!!

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なぜ「巨大」であり、なぜ「猿」なのか

ところで、もし現実世界で体長102メートルの猿を目の当たりにするとなるとそれは恐ろしいだろうが、放射線の熱波を吐く120メートルのトカゲのほうが都市に及ぼす被害的にもインパクト的にも明らかに恐ろしいだろう、と、「ゴジラvsコング」(2021)を見て私は思った。パニックホラー映画に登場するモンスターは、巨大な昆虫であったりサメであったり、カニ、ロボット、エイリアン、恐竜、ときにはマシュマロ・マンであったりする。そのなかで、コングが「キング」であり、かつ放射能怪獣であるゴジラと互角に戦うためには、「巨大」な「猿」でなければならない根本的な理由があるはずである。

巨大さに関して言えば、19世紀半ばの古生物発掘熱、恐竜ゴールドラッシュが示すように、「巨大なるものを追い求める妄想の巨大さ」(『恐竜のアメリカ』91)がその根幹を支えている。これまで公開されてきたあらゆるコングシリーズに通底するのは、髑髏島という地図に載らない孤島の地底に「巨大な未知」が埋まっているのではないか、という夢であり、これは現代の地球空洞説として生きながらえている。1976年版「キングコング」では、油田採掘のために髑髏島を目指す企業の船に若い古生物学者が忍び込み、島を覆う霧の正体を巨大生物の呼気由来のものではないかと推測する。「ゴジラvsコング」(2021)のコングは、研究者たちによって髑髏島から南極へと輸送され、歴史上の巨大生物の源であり故郷である地底空洞に降り立つことで地上にいるゴジラを刺激する。

では、なぜコングは猿である必要があるのか。アメリカの支配の歴史に目を向けて、19世紀後半のダーウィンの進化論が「人間と呼べる唯一の生き物」としての白人の立場を揺らがせ、白人主人と黒人奴隷という関係の基盤を揺らがせるような一大事件であったことにかんがみれば、白人によってアメリカにつれてこられた猿の姿に、黒人奴隷による反乱の恐怖を見出すことは難しくない。人間、主に白人男性が、有色人種や女性や他の「動物」と比べて優れた存在であり、支配者であるはずだ、という考えを疑わざるをえなくなってしまった恐怖は、他の猿映画にも描かれている。「猿の惑星」は猿と人間の主従関係が逆転した世界を描く。「12モンキーズ」では、革命組織の企てにより、脱走したチンパンジーの檻に細菌学者が閉じ込められ、動物の檻の内外の関係が反転する。ジョーダン・ピールの最新作「ノープNOPE」では、チンパンジーがハリウッドのスタジオで暴れて共演者を負傷させ、この事件によりトラウマを負った元子役のジュープ(スティーヴン・ユァン)のショーの興行師としての存在が、のちに登場する巨大生命体と人類との関係を探るヒントになる。

また、分析美学の第一人者ノエル・キャロルが指摘するように、人がモンスター全般に対してホラー感情を抱くのは、モンスターがカテゴリーの境界をあいまいにする「分裂もしくは融合」の要素をもっており、これが不浄なものを忌み嫌う感情を生み出すからである。コングは猿という「動物」でありながら、島の先住民には特別視され神聖化され、その怪力によってほかの巨大生物を統べ、白人女性に恋をするという「人間味」をもつ。コングを猿と人との融合であると考えると、なぜ冒頭に述べた拝む猿の話がどことなく不気味なのかがわかる気がする。さらにキャロルによると、モンスターの巨大化や群衆化の要素はこの嫌悪を増大させる(94-102)。

コングとヒロインの絆

このように、コングは支配関係の転覆への危機感や嫌悪感をかきたてることで、人間にとって克服や侵略の対象となる。ところが、2つのリメイクといくつかの派生作品においては、ヒロインとコングは心を通じ合わせる。シリーズに登場するヒロインの多くは生贄としてコングに捧げられる犠牲者であり、白人男性が構えるカメラにもコングにも「とらえられる」一方で、最終的には銃口を向けられるコングを庇おうとする。

たとえば、1976年版リメイクのヒロインであるドワンは、映画撮影のため香港に行く途中、男性スタッフが船内で『ディープ・スロート』という映画を観始めたため甲板に出たところ、中で爆発事故が起き、自分だけが生きながらえた。救命ボートで気絶しているところを主人公たちの乗る船に拾われ、髑髏島行きに加わる。彼女は、吐息交じりで話し、何が起きても明るくふるまい、男性の機嫌をとるという行動を船員に対してもコングに対しても行う点で、過度にセクシュアライズされた女性に思える。しかし、むしろ彼女は、自分に対して優越主義を振りかざす男性の下劣さを客観的に捉えながらも、その中で女優として生き抜くための術として、吐息交じりの話し方や柔らかな物腰を身に着けたのだ。その証拠に、コングに体を鷲掴みにされる際、彼女はまず“Goddamn chauvinist pig ape!!”「この偏重主義のブタ野郎!!」と怒りを込めて罵るが、その直後に猫撫で声で「私を降ろしてちょうだい、素敵なおさるさん」とささやき、首をかしげる仕草をする。ここでの彼女は、第一に、許可なく身体を掴まれることへの嫌悪や憤りをきわめて自然に発露するが、それに続いて、コングをなだめすかしてその場をやり過ごすことを選んでいる。クロロホルムで眠らされ、捕らえられたコングがニューヨークへ輸送されてゆくのを見て、彼女はコングもまた見世物商売の犠牲者であることに気付く。これ以降の彼女は一転して「コングに共感する美女」という役割を負わされるため、ワールド・トレード・センターの頂上で銃撃されて落下したコングの胸の上で、彼女は泣き崩れる。

2005年版では、冒頭で劇団をクビになった女優アンが仕事先を紹介されるもそこはストリップクラブで、途方に暮れてリンゴを一つ盗もうとするところを映画監督デナムに「発掘」される。髑髏島でコングに捕まった後も、コングの気をそらすため、逆立ちやジャグリングをして積極的に見世物になり、結果的にコングもおどけたダンスのような動作をしてこれに応える。鎖を解いたコングとアンはニューヨークで再会し、互いに特別な感情を抱きつつ、エンパイア・ステート・ビルの頂上まで逃避行する。

「髑髏島の巨神」の戦場カメラマン、ウィーバー(ブリー・ラーソン)は、兵士や島の自然や顔に塗りを施した先住民をカメラに収めていくが、コングが現れた際は構えていたカメラを下げ、接近してきたコングの顔に優しく触れる。2021年の「ゴジラvsコング」では、耳が聞こえない少女ジアがコングと手話ではっきりとコミュニケーションをとり、人類とコングの通訳のような立場を担う。

なぜコングたちは彼女らに好意を抱き、なぜ彼女らはゴジラに惹かれるのか。小谷真理によると、西欧家父長制のイデオロギーにおいては「男が文化/女は自然」、つまり、女は自然/動物に近い存在である(『女性状無意識(テクノガイネーシス)―女性SF論序説』、1994年)。これを踏まえて西山智則は、女性だけがコングと交流できるのは「女と猿を同列におく意識の表れ」であると指摘する(85)。見世物商売の犠牲者としてのキングコングと女性は、見世物扱いされる弱者同士であるからこそ、心を通わせるのである。そして、彼らのコミュニケーションは、基本的には仕草やダンスや手話などの、発声以外の言語によって行われる。

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