[長澤唯史先生インタビュー]『70年代ロックとアメリカの風景:音楽で闘うということ』刊行記念企画

今年の1月に『70年代ロックとアメリカの風景:音楽で闘うということ』を上梓された椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授の長澤唯史先生に4年の榮光太郎がインタビューを敢行!!4時間にも及んだ「音楽愛」に溢れるインタビューをもとにした渾身の記事をご覧ください!!

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「長澤少年」のギターヒーロー、ジェフ・ベック

--話を著書に戻させていただきます(笑)『70年代ロックとアメリカの風景』ではジェフ・ベックに関しても書かれていますが、そこでは長澤先生のベック愛が文面からひしひしと伝わってきます。どの様にしてベックと出会い、夢中になったんでしょうか?

長澤:ベックにハマるまではザ・ビートルズやベイ・シティ・ローラーズの様な所謂「ポップなもの」を聴いていました。ある時、ラジオでベックの『ワイアード』を聴いた際にギターという楽器の素晴らしさや表現力に初めて気が付いた。インストゥルメンタルで歌が無いのに、どうしてこんなに面白いのか不思議に思いましたね。中学生の時にライブ盤が出たので購入したら、そこで見事にハマった。「フリーウェイ・ジャム」という曲のイントロはギターでクラクションを表現してるんですよ。ベックはギターによるあらゆる手段を使って表現を行う。まだギターを始めて間もない頃でしたから、ベックがどの様な奏法でギターを弾いているのかはわからなかったけど、とにかく音がかっこよかった。

--長澤先生にとっての最初の「ギターヒーロー」はベックだったんですね。

長澤:はい。ベックはギターという楽器を最も良く知っている人だと思います。彼の良い所は他の人には想像出来ない方法でギターを演奏していても尚、それを音楽としてちゃんと聴かせてくれる事ですね。ベックの音楽性の変化は60年代から80年代におけるロック自体の変化とある程度結びついているものなんですが、そうした視点だと流行を追いかけただけのミュージシャンにも捉えられかねない。しかし、流行の中で消えるのではなく、未だに根強いファンが付いている状況を考え直した際にやはり「ギタリスト」としての一貫性が浮かび上がってきたんです。ギターという楽器でしか達成できないものを追い続けた人ですから、ギターを弾かない人にはあまり響かない可能性はありますけどね。ただ、70年代は『ワイアード』や『ブロウ・バイ・ブロウ』が何百万枚と売れたんですよ。一般的な知名度と人気があったんです。

--凄い話ですね、今ではちょっと考えられない。

長澤:当時はギタリストがヒーローだった時代なんです。そういう意味でのギタリストというのはエリック・クラプトンが最初でしょうね。彼は70年代以降は「ミュージシャン」の側面を強めていきますが、ある時期までは確実にギターヒーローでしたから。

--三大ギタリストはキャラが見事に分かれているのが面白いですよね。ジミー・ペイジはレッド・ツェッペリンというバンドのギタリスト、バンド・マスターでもあり、コンポーザーでもある。
 新・三大ギタリストと比較しても面白いと個人的には感じています。ツェッペリンのジミー・ペイジとレッド・ホット・チリ・ペッパーのジョン・フルシアンテ、シンガー・ソングライターとしてのエリック・クラプトンとジョン・メイヤー、そしてギターの表現を探求する求道者としてのジェフ・ベックとデレク・トラックス。僕は最後の二人がまだあまり理解出来ていません(笑)

長澤:デレク・トラックスがやりたい事って僕らの世代からすると凄く理解出来るんですけど、若い方には難しいのかもしれませんね。ジョン・メイヤーはギターが非常に上手いですが、確かに音楽に対する姿勢というのはエリック・クラプトンにとても良く重なりますね。あくまで「曲」を大切にする二人です。

--同じ「ギタリスト」でも音楽に対する姿勢が全く違うのが興味深いです。ジェフ・ベック論ではレス・ポールに関しても述べられていますが、彼や彼の作るギターはどんな所に革新性があったんでしょうか?

長澤:レス・ポールはギターを自分自身で作る人でもあり、録音を前提とした音楽を作る人でした。音楽は一発で録音するものであり、その一回性の中にギタリストのテクニックが求められていた当時、レス・ポールはただギターを弾くだけではなく、音楽を聴かせるための工夫まで考えていた。その際にギターという楽器の音まで変えてしまったんです。そして、その系譜にベックも位置付ける事が出来る。ジェフ・ベックは音に変化を与えるためにギターだけではなく、エフェクターはもちろん、奏法すら変えていく。ギターという楽器の限界を体現していたのがジェフ・ベックであり、またジミ・ヘンドリックスだった。

--確かにウッドストックのジミヘンを聴いていると「ギターという楽器にこの先ってあるのかな」という気がしてきます。69年なので50年前の出来事ですが、ある意味では誰もあれを超える事が出来ていない。

長澤:本当にそうですよね。もちろん、スティーブ・ヴァイの様な80年代の人も凄いとは思います。
 ギターという楽器は本当に面白いですね。榮さんもギターを弾くから分かると思いますが、弾き方によって音を大きく変えられるじゃないですか。エフェクター以前にピッキングの仕方や弦の押さえ方によって音に変化をつける事が出来る。「そういった楽器って他にあるのかな」と考えた際にギターという楽器の特殊性が見えてきましたし、それを理解して、突き詰めていく存在としてのジェフ・ベックに気が付いた。ギターの可能性を突き詰めていったら音楽そのものを変えてしまった、みたいな人ですね(笑)
 本書で引用もしましたが、マーシャル・マクルーハンのメディア論では「メディアがメッセージである」というテーゼがあります。それと重ね合わせた際にジェフ・ベックという人がさらに見えてきた。ギターを「メディア」として考え、それで何が出来るのかを考えた結果、新しいメッセージが生まれたんです。

--何かの「主題」というものが先に決まっている訳ではなく、市場に出回っているもの(ギター)を弄っていたら結果的に出来てしまった音楽。

長澤;そういうこと事です。これもロックの面白いところですよね。

--はい。僕はオルタナティブ・ロックが好きなので、今のお話を聞いてシューゲイザーを想起しました。この前の『ギター・マガジン』でマイ・ブラッディ・バレンタイン特集が組まれていましたが、ケヴィン・シールズが語る『ラブレス』製作秘話が興味深かったです。あれオルタナティブ・ロッククひたすら機材を弄ってたら出来上がった音楽ですから、世代の違いはありますが録音芸術としてのロックにはやはりそういう側面もある気がします。

長澤:マイブラ以降では「ロック」が大きく変化しましたよね。ギターにファズとかディストーションをいくつも繋ぎ音を大きく歪ませるアプローチによってロックだけではなく音楽そのものが変わったと思いますし、リスナーの感性、聴き方も変わった。リアルタイムで聴いた時は本当にびっくりしました。

--そうですよね。僕なんかは全て後追いの世代で、サブスクリプションによるあらゆる音楽の並列化の中で音楽を聴いていますから本当の意味での「新鮮さ」みたいなものは体感出来ていないと思います。しかし、6、70年代からロックに親しまれてきた長澤先生の世代は腰を抜かしただろうなと。

長澤:そういう意味でも90年代においてニルヴァーナとマイブラは私にとって大きい存在でした。70年代のファンクやR & Bが好きなので、そういった音楽性をロックに取り入れたレッチリのかっこ良さはある意味地続きで分かりやすい。それとは全く違う方向性や可能性を見せてくれたのがオルタナティブ・ロックのグランジやシューゲイザーでした。
 榮君達の世代があらゆる音楽を並行して聴ける事が私には羨ましく思えるんですよ。今の時代はサブスクですぐに情報にアクセス出来ますから、それを自分で組み合わせて新しい「絵」を描いていく事が焦点になっていますよね。我々の時代は他の人が持っていない情報に価値がありましたが、今は情報自体は誰でも手に入るからその組み合わせや、そこから自身が作る何らかのヴィジョンにオリジナリティが出てくる。趣味という点では大変だと思いますが、やはり羨ましい。

--シチュエーションやその時々の気分にあったプレイリストを作成して、それを共有する。その選び方のセンスが問われる時代ですね。そんな今、ギターヒーローという存在の不在が叫ばれますが、これは「メディア」としてのギターを更新することが出来ていない、つまり新しい奏法を生み出している人がいないという1点に尽きるのかと感じます。その点に関してはどう思われますか?

長澤:ギターという楽器にこれ以上の進化の余地が無いのかもしれませんね。70年代以降も超絶技巧のギタリストというのは出てくるんですが、今ギターという楽器を使ってギタリストが何か革新的な事をするかと言われると私にも正直分からない部分があります。

--なるほど。そもそも一つの楽器が数十年に渡り第一線で活躍していた事、それ自体が長過ぎる気がするのも確かです。

長澤:そうですよね。ギターを弾く身としては悲しい部分もありますが、こればっかりは仕方がない。そういった楽器、メディアに頼らない音楽としてこれだけヒップホップが若者に人気であるという事実はとても興味深い状況ですね。

--良く言われる話ですが、今スターになる事を夢見る若者はギターではなく、中古のパソコンを買ってそれでヒップホップの道に向かいますね。

長澤:ベックみたいなギタリストは人間の限界に挑んでいるという側面がありますが、パソコンがあればそういった限界はそもそも無いですからね。そういう時代にギタリストが何ができるのかという視点は面白いのかもしれません。

--ギターが主流ではなくなったが故にギターやギタリストの可能性、存在価値が問い直されている時代。

長澤:そういった意味でマイブラが再び注目されているのでしょうね。シューゲイザーという音楽ジャンルは超絶技法ではなく、別の方向性でギターによる表現を確立した音楽ジャンルですから今聴いても本当に面白い。

マーク・ボラン、「スター」の才能、そして復活寸前の死

--ベックとは違い、ギターが今お世辞にも上手いとは言えないマーク・ボランも著書では取り上げられていますが、長澤さんからボランはどういった点がロック・ミュージシャンとして魅力的でしょうか?

長澤:やはり自分を「魅せる事」が本当に上手い点ですね。彼はタレントなんですよ。そして同時に音楽への愛情があった。大好きな音楽で自分をアピールする事を目指していた人だと思います。魅せる才能というのは生まれ持ったものではあると思いますが、 それを努力によってさらに磨いていった。 そういう意味で本当に根っからのスターなんですよね。

 ボランが亡くなった70年代の中盤は彼が落ち込んでいた時期だったんです。人気も下がり、太ってしまった事で「絶世の美青年」から離れてしまっていた時代だった。でも実はそこから復活しつつあるタイミングでもあったんです。だからこそ夭折が残念で仕方ない。そういった復活寸前まで自身を律した事を考えても、やはり僕はマーク・ボランは努力の人だと思いますね。付け加えると「マニアック」な部分も備えていて、今読んでもその文章的表現力には目を見張るものがある。音楽的には当時の流行、いわゆるグラム・ロックの文脈上にありますが、そこに乗っている歌詞は文学的に評価する事が出来ます。そうやって歌詞やルックスを通して自分を作り上げていく執念が凄い。

--現代の邦楽だと椎名林檎が近い印象です。音楽性や歌詞などではなく、存在感というか。

長澤:椎名林檎もどこか狂気めいたものを持っているけれども、それ以上にその狂気を持っているように魅せる事が上手い。「魅せる」という才能ですね。

--確か椎名林檎は27クラブを意識した熱狂的なファンの発言などから、一時期本気で自死について考えてしまっていたというエピソードがあったかと思いますが、ボランも同じく27クラブ、夭折への意識があった。そして、30歳になる2週間前に事故で本当に亡くなってしまう。そういった点もある意味伝説的だと感じます。「スターの才能」と言ってしまうと露悪的かもしれませんが。

長澤:私はボランの死をリアルタイムで経験しましたが、これも衝撃的でしたね。中学生の時に『ミュージック・ライフ』で「マーク・ボラン、事故死」という記事を見た。当時は大ファンではなかったんですが、よくマーク・ボランンュージシャンが亡くなってしまうという事が初めてでしたから。

--当たり前なんですが、本当に凄い経験を沢山されていますね、人生とロックが結び付いている。

長澤:77年って本当に色んな事がありましたよ、それこそピストルズの『勝手にしやがれ!!』もこの年ですね。 ボランに関してはグラム・ロックという枠で考えてしまうと彼の本当の魅力が伝わらない可能性がある事に執筆中に気が付きました。確かにグラム・ロックという当時の流行の中でのスターではあったんですが、もともとファンタジーやSFがルーツにあり、歌詞による表現に非常にこだわりがあった。かと思えばモッズのモデルをしていた側面もあるので、当然ですがファッショナブルな存在でもある。そのあらゆる要素の合流地点としてグラム・ロックが出来上がった訳ですが、尚そこからはみ出す存在でもあった。
 ちなみに最後のアルバム『地下世界のダンディ』は今聴いても本当にかっこいい。ファンクやディスコの要素も取り入れていて、グラム・ロックという文脈だけでは語り切れない幅広い音楽性を追求している。まだまだこれからという時に亡くなってしまった人ですね。彼が亡くなってから5年ほど経つとMTV の時代が来ていたので、ボランの再評価が行われていた可能性は非常に高い。

--あー!そこが繋がるんですね!可能性として非常に面白いです。

長澤:デヴィッド・ボウイが80年代に復活したのも、やはりテレビでの露出が大きな役割を果たしていましたからね。視覚に訴えかけてくるかっこよさ。 つい先日、リバイバル上映で大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』を見ましたが、あの美しさはやはり凄い。『レッツ・ダンス』辺りであっという間に大スターに返り咲きましたよね。音楽的な実験性などもありますが、やはりMVをテレビで放送した事が要因としては大きいでしょう。「MTVの時代にマーク・ボランが生きていたらな」と未だに考えてしまいます。 

--目から鱗です。ジャンルやアーティストを基準に遡って聴いてはいますが、やはりリアルタイムでシーンを体感していた方でないと分からない事がありますね。著書や本日のインタビューを通して長澤先生のボラン愛を非常に感じます。音楽論や歌詞分析だけでは掬い取れない彼の魅力が伝わってくる。

長澤:それはやはり僕自身がロックファンでもあり、マーク・ボランのファンだからですね。研究を通して見るロックと、1人のロックファンから見るロックというのはどうしても違う。恐らくボランもベックも研究的な目線だけで見てみると全く面白くない(笑)執筆する際に「自分が面白いと思う事や、好きな事を研究にどの様に繋げていくか」という事をかなり意識しました。

--本書はもちろん研究書として非常に興味深い内容でしたが「ミュージシャンへのラブレター」という印象もあります。長澤先生の愛で溢れていますよね。

長澤:本当にその通りで、好きなミュージシャンに読んでいただきたいという気持ちで執筆をしていました。また、自分の様にロックが好きな人達にロックという音楽の可能性や、その世界の広さ、素晴らしさを伝えたかったというのも大きな動機でした。「ロックが終わってしまった」と言われる今だからこそ、ロックの可能性はまだ終わっていないという事を同じロックファンや若い方に伝えたかった。ですから榮君のような学生に読んでいただいて、何かを感じ取ってもらう事が出来た事が本当に嬉しいです。

ブラック・サバス&ラヴクラフト論、「恐怖」と「倒錯性」

--そう言っていただけると一人の読者、インタビュアーとして本当に嬉しい限りです。
先日、巽先生と小谷真理氏、佐藤光重先生をお呼びして『たつこた鼎談』という弊誌企画を敢行した際に佐藤先生がラブクラフト・ファンである事が判明し、その意外性に非常に盛り上がりました(笑)本書のコラムでもブラック・サバスの分析にてクトゥルフ、ラヴクラフトそしてポーが「倒錯性」というテーマのもとで取り上げられていますよね。 非常にスリリングな論考で楽しく拝読させていただきましたが、どの様な経緯で執筆されようと考えられたのでしょうか。

長澤:これはふと降りてきたんですよ。

--凄い、、!!

長澤:原稿を集めていた編集者の方からテーマを聞いた時にふと浮かんできたのがブラック・サバス&ラヴクラフト論でした。ここでは「恐怖」が一つのテーマです。ブラック・サバスは「ゴシック」といったイメージのもとで昔から「恐怖」を意識して聴いていました。
70年代にオジー・オズボーンが脱退した時期もありましたが、ファンからするとやはり彼のあの変な声が「ブラック・サバス」なんです。オズボーンやサバスの音楽に通底する「歪み」を考え直した際に、ラヴクラフトが自然に繋がった。ある意味美学論的な視点で執筆したものなので、このコラムは第二部に入れるは少し無理がありましたから独立させて配置する事にしました。

--ご自身の中で好きなものを繋げて、その好きな点や理由、共通点などをまとめられたんですね。

長澤:はい。ですからこのコラムを書いた事で、逆に「自分がなぜラヴクラフトやブラック・サバスが好きなのか」という事に関して改めて考えるきっかけになりました。また文学とミュージシャン、音楽を繋げる一つの実験でもありましたね。「こういった論考を展開できるアーティスト」と考えた時、実は70年代の音楽は文学的な視点からの執筆をしやすい側面がある事に改めて気が付きました。それはそもそも、ミュージシャンがそういった視点から作品を作ろうとしていた事の証明でもある。

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