[長澤唯史先生インタビュー]『70年代ロックとアメリカの風景:音楽で闘うということ』刊行記念企画

今年の1月に『70年代ロックとアメリカの風景:音楽で闘うということ』を上梓された椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授の長澤唯史先生に4年の榮光太郎がインタビューを敢行!!4時間にも及んだ「音楽愛」に溢れるインタビューをもとにした渾身の記事をご覧ください!!

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ボブ・ディラン、詩人?ミュージシャン?

--その視点、試行錯誤を丁寧に救い上げられたコラムだと感じました。「音楽と文学」という観点だと、第二部で扱われているボブ・ディランはやはりその代表的なミュージシャン、アーティストだと思います。多くの研究者がディランの捉え方、つまり「ミュージシャンとして捉えるのか、また詩人として考察するのか」について悩まれている様に感じますが、長澤先生はどの様にディラン論を執筆されたのでしょうか?

長澤:はっきり言ってしまうと「ボブ・ディランは詩人としては一流とは言い難い」というのがアメリカ文学研究者の間での一般的な評価でしょう。決して二流ではないけれども一流ではない。アメリカ文学者がアメリカ文学やアメリカ詩にハマるきっかけがディランである事は多いんですが、研究を進めていくうちに彼が詩人としては一流ではない事に気が付く。しかし、そこで止まるのではなく、それでもどうしてこんなにディランが愛されてるのかという事を考えた際に、アメリカ文学やアメリカ詩の中でもう一度ディランを捉え直してみたくなった。ですからこの章では彼の詩の分析は無いんです。

--「アメリカ詩人としてのディラン」を取り上げられている印象です。

長澤:歌詞の分析は多くの専門家が既に論じられていますから、「アメリカ文学における詩人」としてディランを評価する際の自分なりの新たな視点を提案をさせていただきました。この原稿を書いていた際にちょうどディランがノーベル文学賞を受賞したので、自然とこのテーマになったんです。個人的にはディランの音楽それ自体が凄く好きなんですけどね。歌詞も良いけれども、それを音楽に乗せてあの声で歌う事が素晴らしい。

--最近は歌詞に注目が行きがちですが、声がとにかく良いというのは間違いなくあると思います。

長澤:そう。あの声じゃないと面白くないんですよ。ディランをカバーしている人の中で面白いと感じたのはジミヘンくらいですかね。

--「見張塔からずっと」ですね。数年前にCHANELのCMにも使用されていましたから、割と若い世代にも知られている気がします。これはもうとにかくかっこいいですね。

長澤:もちろんジミヘンがディランに影響を受けてちょっとザラザラついた声、表現になっていたのは事実ですが、聴いていて違和感が無いですよね。他の人が歌うと綺麗になりすぎてしまう印象がある。今、もう一度ディラン論を書くとしたら音楽的な要素も付け加えたいですね。 私にとってボブ・ディランはあくまでミュージシャン、アーティストですから、ただの詩人という評価はしたくなかった。
 そして、70代を過ぎても精力的に活動している事自体がまず凄いですね。その中身に関しても時代を追っている訳ではないけど古いものに固執するのではなく、新しいものを作ろうとしている。それは最新アルバムの音作りにも顕著でしょう。常に野心的で進化し続ける晴らしいミュージシャンの一人ですね。

ジミ・ヘンドリックス、「クロスタウン・トラフィック」なアイデンティティ

--勉強になります。先ほどから度々話題に上がるジミ・ヘンドリックスですが、本書では彼のアイデンティティ、ルーツに関して掘って論じられているのが非常に新鮮でした。やはりロック・ミュージシャンとして音楽的に後にも先にも無い天才ですから、彼を論じる際もそういった視点からの論考になる事が多い気がします。

長澤:この章の冒頭ではジミヘンとカルロス・サンタナの出会いを冒頭に書きました。サンタナはメキシコ出身のヒスパニックで、いわゆるネイティブ・アメリカンの血も継いでいる、実はジミヘンもそうなんです。これは研究者の中では当然知られているはずですが、何故か皆あまり語りたがらない。「白人音楽」と「黒人音楽」の狭間としてのジミへンしか語られてこなかったんです。サンタナと繋げる事でネイティブ・アメリカンとしてのジミヘンに着目する事にしました。そして、その際に「西海岸」という空間の特殊性が浮かび上がってくる。サンタナはメキシコから北上してサンフランシスコに、ジミヘンはシアトルからサンフランシスコに降りてくる。西海岸という場所では当時様々な人種が集まってきて混じり合っていったんです。そういった西海岸の空間性を意識すると、ジミヘンの音楽にはブラック・ミュージックと白人のロックを繋げただけではなく、それ以外の要素が存在していた事が分かってくる。
 また、彼のネイティブ・アメリカンというルーツを鑑みた際に浮かび上がってくるのがSFでした。ネイティブ・アメリカン達の神話とSFが実は物凄く結びついていた事に気が付いたんです。ジミヘンの歌詞はSF物語でもあるけれども「ネイティブ・アメリカンの創造力」という突拍子もないものが混在している点が興味深いですね。「黒人」と「白人」の二項対立で見た際には分からなかったが「ネイティブ・アメリカン」という要素を入れる事で新しい側面が見えてきた。これは私自身書いていて非常に楽しかった章です。

--読者としてもとてもワクワクしました。ジミヘンは「クロスタウン・トラフィック」という曲を残していますが、「西海岸」という場所を意識した際に彼自身がクロスタウン・トラフィック、つまり「アイデンティティの合流地点」として浮かび上がってくる、本当に面白かったです。ジミヘンはどうしてもブルース的なフレージングや表現力、ウッドストック・フェスティバルでの名演などが語られがちですし、僕自身正直あまり彼の歌詞を意識して聴いていなかったですね。

長澤:彼はやはりギタリストとしての側面が大きいですからね。私も単に60年代の時代性が反映されたサイケデリックな歌詞という印象でした。本書では「風の中のマリー」という曲を取り上げていますが、詩としてすごく重層的な読み方ができる一方で一見すると「変なタイトルだなぁ」くらいにしか捉えられない。

--「主体としての風」というネイティブ・アメリカンに独特のアニミズム的な発想から見た歌詞分析が刺激的でした。

長澤:実は物凄く多才な人なんですよ。ギターの才能があまりにも傑出していたけれど、同時に文学的にこだわりがあるアーティストでもあった。ジミヘンのそういった点に着目するとネイティブ・アメリカンの神話とSFが繋がる彼の世界観の中で、逆説的にそのギターの魔術的な側面が浮かび上がってくる。

 ジミヘンに関して調査や執筆をしていると次第に点と点が線で繋がっていった。 最終的にはワイチー・ディモクの「Deep Time」 まで(笑)アメリカ文学者としてジミ・ヘンドリックスを考えるという事がアメリカ全体を考える事にもなりましたね。 アメリカの時代性、空間性すら体現したアーティストだった重要なアーティストだという事を再認識出来ましたから、私はジミヘン論は私自身とても思い入れがあります。 ちなみに、榮君は『ランブル』という映画はご覧になりましたか?

--いえ、見てないです!

長澤:ロビー・ロバートソンの様なネイティブ・アメリカンをルーツに持つミュージシャンを取り上げた映画なんです。その映画をプロデュースしたのがスティーヴィー・サラスというギタリスト。

--著書でも取り上げられていたミュージシャンですね。

長澤:80年代後半から90年代にかけて一時期的に、日本でも人気があったギタリストですが、今はあまり聴かれていないかもしれませんね。ファンクの要素を取り入れながらも、ハード・ロックやヘビー・メタルの文脈でプログレ的な音楽をやっています。そのスティーヴィー・サラスはネイティブ・アメリカンでもあるし、黒人でもある。最近は特にアメリカのポップ・ミュージックやロック・ミュージックにおけるネイティブ・アメリカンの存在感に関して考えているので、彼とジミヘンが繋がる事が非常に興味深かった。

 本書に載せる事はしませんでしたが、ジョニス・ジャプリンについても論じたんです。彼女の世界観にもインディアン的神話が存在しますから、60年代から70年代のロック・ミュージックにおけるネイティブ・アメリカンの存在感が大きかった事が窺えます。それが60年代アメリカ社会へのカウンター的機能を果たしていたとも言えますし、またネイティブ・アメリカンの世界それ自体が非常に魅力的だったとも言える。
 文学研究ではネイティブ・アメリカンに着目した論文というのは近年増加していますが、音楽研究に関してそこに着目しているものはまだ実は少ないのが現状です。ただ、先述した『ランブル』が注目されている状況を見ると、これから音楽研究においてネイティブ・アメリカンの重要性が自然に高まってくる気がしています。

--音楽研究の動向に関する貴重なお話も聞く事が出来て本当に勉強になります、、!

マーヴィン・ゲイ、そして「黒人音楽」への評価

--12章のマーヴィン・ゲイ論、そして13章ではケンドリック・ラマー論と続きますが同じ黒人ミュージシャンを並べられている点に何か長澤先生の意図の様なものを感じます。

長澤:マーヴィン・ゲイの章は実はマーク・ボラン論と対になる章として執筆しました。というのも彼らはやはりアイドルでもあり、スター。 しかし、両者は全く違うコンテクストの上に成立していたミュージシャンです。そもそも国籍が違いますし、人気の背景にあったものも全く異なる。マーヴィン・ゲイは黒人でありR&Bのスター歌手、かたやマーク・ボランは白人で王道のロックの人ですからね。
 本書でも取り上げたチャーリー・プースとメーガン・トレイナーの「マーヴィン・ゲイ」という曲のMVを見た際の衝撃がゲイ論を書くきっかけになったんですが、そこで彼のセックス・シンボルとしての存在感に改めて気が付かされました。しかし、当時の状況を考えると黒人の歌手がセックス・シンボルになるという事自体が物凄く新鮮な事だったはずなんですよね。白人でルックスが良いボランがスターになるのはある意味自然な事かもしれない。そんなボランに対して黒人のゲイがなぜ黒人・白人問わず非常に人気があったか、という事を考え直した際にアメリカにおける黒人への視線の変化があった事が分かった。

 そういった黒人ミュージシャンへの評価の流れを踏まえた上で、近年の動きとして最も重要なのがケンドリック・ラマーのピューリッツァー賞の受賞でしょうね。黒人音楽が文学的な価値を認められるようになったという事はマーヴィン・ゲイの時代には考えられなかった事です。黒人音楽の可能性を広げたという点でこの二人の存在は非常に大きかったですし、12章・13章と彼らを続けて論じたのはそういった意味があります。もちろん、偉大な黒人ミュージシャンとしてはマイケル・ジャクソンやプリンスもいますが、黒人音楽の表現をそれまでとは違う方向に広げたという観点からこの二人を選び、論じる事にしました。

--ある意味語りやすいミュージシャンではなく、マーヴィン・ゲイを選ばれている点が本書の特色ですね。「これまで語られていたミュージシャンの違った側面、これまで語られる事が少なかったミュージシャンを語り直す」という本書の目的が体現されている章だと感じました。実はマーヴィン・ゲイは個人的に大好きなミュージシャンですし、『ミッドナイト・ラブ』が一番よく聴いているアルバムなので取り上げてくださって非常に嬉しかったです。

長澤:『ミッドナイト・ラブ』はリアルタイムで聴いましたが、これも本当にかっこ良かった。彼に惚れ直したと言っても良い様な作品でした。それまでのマーヴィン・ゲイはどちらかと言うと「ホワッツ・ゴーイング・オン」の様な政治的なメッセージばかり取り上げられていましたが、そういった状況の中で『ミッドナイト・ラブ』を出した事で一気にセックス・シンボルとしてのゲイが確立した。 榮君の様な若い方が聴いても受け入れられるのは、音作りの点でヒップホップに近い部分があるのかもしれないですね。

--「サード・ワールド・ガール」ではローランドのTR-808、いわゆる「ヤオヤ」を使っていますよね。あのカウベルの音はヒップホップだけでなくピコ太郎も使っていましたから、我々の耳にも馴染む音かもしれません。

長澤:マーヴィン・ゲイが実験的に取り組んでいたアルバムという側面もありますからね。 音楽的には80年代に入り、打ち込みによるサウンドが台頭し始めていた時代でしたが、それを取り込んでここまで見事な作品にしてしまう彼の才能が垣間見える名盤です。改めて言うまでもないかもしれませんが、マーヴィン・ゲイは歌が本当に上手いですよね。削ぎ落としたサウンドにおいても音楽として成立させてしまう「歌の力」というものが『ミッドナイト・ラブ』では発揮されています。

--実験的だからこそ、逆説的に彼の歌声の素晴らしさが浮き彫りになっているんですね。

NEXT!! ブルース・スプリングスティーン論

--愛するミュージシャン達への素敵な想いをお聞かせてくださりありがとうございます。好きなものについて書く事に関して、不安や難しい点はありましたか?

長澤:何かを批判するものを書くのはある意味簡単ですが、自分が好きなものに関して「どういう風に好きなのか」「なぜ好きなのか」を書くのはそれ自体がとても大変でした。ですが、本当に楽しいし、幸せな行為でもあります。不安という点だと、今回の『70年代ロックとアメリカの風景:音楽で戦うということ』で自分の好きなものについて沢山書いてしまったので次に何書こうかな、と(笑)
 ただ、やはりブルース・スプリングスティーン自分の中で欠かせない存在ですし、アメリカ文学研究者として一度ちゃんと向き合う必要性があるミュージシャンだと感じています。

--最終章である14章では「本章は次に書くべきブルース・スプリングスティーン論の序章でもある」という風に述べられていますよね。

長澤:単純にスプリングスティーンが好きで、彼の魅力を伝えたいという動機もありますが、やはり「アメリカ」について考えた際に最も重要なミュージシャンの一人でもありますからね。榮君はスプリングスティーンはお好きですか?

--『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』はかっこいいとは思いますが、正直言うとハマった事は無いんです。重要なミュージシャンだという事は認識していますが、何故かあまり受け付けない。

長澤:私もある時期までそうでした。安直に「かっこいいロックだなぁ」とは思っていたんですが、のめり込めなかった。しかし、20代後半の時に「ザ・リバー」を聴いた瞬間なぜか体に染み込んでくる感覚があった。泣いてしまったんです。そこで描かれる『「このまま自分は終わるんだ」というやり場のない気持ちに気が付いてしまった語り手』に感情移入したのかもしれません。「明日なき暴走」は未来に向かって走って行く曲ですが、 「ザ・リバー」ではもう走る事が出来ない。そういう歌の意味が自然と理解する事が出来た際に涙が溢れていました。

--素敵なエピソードですね。それが音楽の面白いところだと常々感じています。僕も高校生の時はプリンスがどうしても好きになれなかったんですが、岡村靖幸にハマった後、20代になってからは自然と受け入れられる様になっていました。スプリングスティーンに関しても「今は幼いから理解出来ないけど、そのうち分かる様になるんだろうな」と思い、体が受け入れる準備が出来るのを待って(放置して)います。

長澤:「体が受け入れる準備が出来る」という表現がまさにその通りですね。最初に聴いた際に感動や興奮を覚える様なものもあるし、じわじわと伝わってくるものある。それは自分の人生経験によるものかもしれないし、音楽の体験、蓄積かもしれないですね。

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