[白川恵子先生インタビュー]『抵抗者の物語 初期アメリカの国家形成と犯罪者的無意識』刊行記念企画

巽院ゼミOGであり現在同志社大学文学部英文学科教授である白川恵子先生が、2019年10月21日に小鳥遊書房より初の単著『抵抗者の物語 初期アメリカの国家形成と犯罪者的無意識』をご刊行されました。巽ゼミではそれを記念し、インタビューを敢行。

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「犯罪者的無意識」

–第4章のスティーヴン・バロウズという人物についてお聞きしたいと思います。バロウズはお父さんが牧師さんで、お父さんの下で子供として居る時は牧師である父に対して詐欺師の息子ということで反逆者と呼べますが、詐欺師が一旦権威的なものを持ってしまうと彼自身が権威となってしまうのでもはや反逆者ではなくなるなど、抑圧する/されるという関係が入れ替わったり、転覆したりだとかを繰り返しているような印象を、第4章を通じて私は受けました。バロウズが持っているとされる「犯罪者的無意識」という言葉が私は気になったのですが、犯罪者的無意識というのは、自分が抑圧されている社会の犠牲者であるとしてそれを表に出すとか文字にして出版するといった行為にどういう風に関わってくるものなのでしょうか。

白川:バロウズは「自分は徹底的に被害者なのだ」のスタンスで回想録を書いているんですね。徹頭徹尾、私は虐げられてきたし何一つ悪いことはしていない、むしろ世のため人のためになることをやっているのに、世間も権威筋も全く理解してくれていないと、滔々と語っているんですよ。とはいえ、「犯罪者」であったのは事実です。子供のころはいわゆる「悪ガキ」でした。ひとつひとつの悪戯はこんにちの私たちの感覚からするとたわいもないことで、例えば、スイカや糖蜜を盗んだり、先生に悪さをするとかの類です。独立戦争の折に従軍するんですけど、脱走して、本来ならば、銃殺刑なのに、父親に、ワシントン将軍宛ての陳情書を書いてもらったりして、結構「へなちょこ」だったりもします。もちろん大学も、放校になります。で、その後、父親の説教を盗んで、資格もないのに偽牧師になりすまして、得意満面だったりする。でも、案外抜けているところもあって、錬金術師に騙される――つまり、詐欺師が詐欺師に騙されたりもするんです。友人にそそのかされて贋金造りに加担するんですけど、その贋金を使おうとしたら、あっけなく逮捕されちゃう。しかも、共犯者のことを言えずに、友人の罪も引き受けて投獄されてしまいます。なんだか読んでいると、だんだん気の毒になってくるというか、もしかしたら、本当に、ただ運の悪い人なのであって、根は良い人だったのかもしれない?とか――まあ、尤も、彼自身がそういう風に書いているからなんですけど――一瞬思えてしまうんですよね(笑)。むろん贋金造りは大罪だし、監獄で囚人仲間と暴動やら放火騒ぎやらを起こした挙句、複数回にわたって脱獄する「罪」を重ね続けるのだから、「確信犯的」な犯罪者であるのは、その通りなんです。ただ彼は、権威や体制に抵抗するがゆえに犯罪者とならざるを得ないとくり返すわけで、本当にそう信じていたかどうかは、あくまでも紙上に書かれた文言なのでわからないけれども、ともあれ、自分は「被害者」なのだと主張し続けます。ところが皮肉にも、彼は、比喩的な意味で、自らが否定していたはずの「権威」になっていく。それは彼の奇妙な説教になって表れていると思われます。

–『乾草上の説教』ですよね。

白川:はい。これはまったくのパロディで、本当に、ひどく下劣なテクストなんです。この『乾草上の説教』というのは、バロウズを批判して、追い詰めたペラムの町の人たちを貶める為に、彼が書いた説教風の揶揄の文章なんですね。あ、ちなみに、ぺラムとは、バロウズが偽牧師として赴任したマサチューセッツ州の町のことです。ぺラムの人々は、そもそも疑り深い性質の者たちで、自分にも悪意をこめた不信の目を向けていたし、「なんて意地悪!ペラムの人たちって酷い!!」という類の、非難と恨み節全開。でも、同時に、己を含めて事態を洒落のめす文章でもあるんです。偽牧師バロウズは、父親の説教を盗んで、それを、さも自分が考えたかのようにして、ペラムの会衆に聞かせます。要は、剽窃ですよね。でも、自分が喋った説教の内容は、素晴らしいのだし(そりゃそうだろう、父親のなんだから(笑))、誰も損はしていないじゃないか、むしろ、良い説教を聞けたんだから、良かったじゃないか! という「逆ギレ」的な正当化をするんですよね。それに実際、ペラムの人たちは、バロウズの前任者だった牧師を三人とも追放していて、自分も含め、他の牧師たちにも散々酷く当たってきたじゃないか!という批判も追加されます。『乾草上の説教』は、シェイズの叛乱という事件を巧みに取り込んでもいます。独立戦争後、独立したばかりの合衆国は経済危機に瀕していて、マサチューセッツの人々も税を取り立てられますが、そもそも貨幣不足で税が払えない。そこで人々は紙幣発行を求めるのですが、ワシントン大統領は取り合わずに、結果、未納税者の投獄が相次ぎ、農耕も生産も滞るという困った事態にみまわれました。そこで、シェイズというぺラムにゆかりの人物が、体制転覆をもくろみ、一揆をおこしますが、あえなく鎮圧されてしまいます。バロウズは説教で、ぺラム住民が鎮圧軍に恐れをなして逃げ出す様を嘲笑って批判するのですが、この時、バロウズ自身も、体制側や権威と同化するかのように住民の体たらくを揶揄します。
 こうして『乾草上の説教』で、ペラムの住人を高みから非難をしているバロウズは、自分では気が付いていないのかもしれないけれども、無意識的に、テクストの上で権威と化すような言説を作ってしまっています。もともと、父であれ、教師であれ、町の重鎮であれ、監獄長であれ、当局であれ、権威側の横暴に抵抗しその過ちを正そうと思っただけなのに、人々からは誤解されて、悪者扱いされてしまった。だから自分自身、犯罪者であったという意識が薄い。そういったことが「犯罪者的無意識」という言葉と関連しているわけですが、皮肉にも、自分自身が否定したはずの権威と化すレトリックをも無意識的に作り上げてしまっている、そんなことを言いたかったわけです。当然ながら脱獄やら贋金造りをしたわけですから、実質的には犯罪行為をなしていることは、彼自身わかっているでしょうけれども、テクスト上の自己正当化ゆえ、抵抗や犯罪の自覚も、あるいはまた、権威的偽装も、どの程度の意識をもっていたのかは、きわめて不鮮明。あるいは、あざといまでに、そのように「作っている」とも「読める」わけで、バロウズの表象や権威への思考や思惑が、意識的なのか無意識的なのか潜在意識的なのが超意識的なのか、わからない。もっといえば、そんな文言を当てはめるべきか否かも、難しいのかもしれません。とはいえ、便宜的であれ、タイトルをつけるのならば、「犯罪者的無意識」を下敷きにした「詐欺師的独立宣言」なのかな、と思います。

–自分が虐げられてる側なんだと思って自伝を書くなど、自分が抵抗者であるという自覚をした「被害者面」と言ったらすごい平たい言い方になってしまいますけど、「被害者面」をしているところが『抵抗者の物語』における抵抗者の定義になるのかなと思いました。

白川:バロウズのテクストには、興味深いところが、いろいろとちりばめられています。例えば、ごく一部なんだけれども、英領植民地の奴隷制にまで言及しているんですが、囚人となった自分が置かれている監獄の状況を、奴隷の状況になぞらえつつ、独立革命時のパトリック・ヘンリーの「自由か死か」まで引っ張り出して、自己正当化しているんです。となればそれはもう、独立宣言のレトリック以外の何ものでもないだろうというふうに読めてしまいますよね。そもそも独立宣言のハイライト部分は、所与の生得的権利を謳った文言――よく引用されて、暗記される部分――ではなくて、後半の英国王個人への告発事項ですから。植民地は隷属状況下にあって、ひどく虐げられている被害者なのだから、その隷属の鎖は転覆行為によって改廃せねばならない、よって、植民地側の行為は正しいと主張しました。ところが、被害者であると言って権威に対して抵抗し、独立した側は、オリジナルの起草文から、奴隷叛乱教唆の件りを削除してしまったし、また、独立直後に、同様の理屈で、政府の圧政に対して批判し、実力行使したシェイズの叛乱は容赦なく鎮圧するのですから、犯罪者と英雄が弁別不能になるさまと、体制への抵抗を示した側が体制や権威と化していく皮肉は、まさにこの時代を生きたバロウズによって写し取られていると考えられるわけです。

ゼミ生へのメッセージ

–ありがとうございました。ご著書の内容だけでなく、白川先生の執筆方法、アメリカ文学研究との出会いなど、我々学生にとっても参考になる内容が多く、大変興味深く拝聴いたしました。最後になりますが、パニカメ読者の学生にメッセージをお願いいたします。

白川:3-4年生の皆さんに向けてということですよね。就活などとのバランスとか、有意義な学部時代の、特に後半の2年間のためのアドヴァイスやメッセージについては、わたしなどよりも、きっともっと適切にお話しできる方がいらっしゃると思うので、そちらにお願いするとして、それ以外で思いつくのは、そうだなあ、大学の施設とか、設備とか、データベースとか、その他もろもろを、沢山、いっぱい利用しておく、ってことでしょうか。平素、授業を受けたり、校内で何らかのアクティヴィティをする折の「ルーティーン的使用」以外にも、慶応には、多くの利用可能性があるように思います。案外、それに気づかずに卒業してしまったりするので、そうしたものの利用価値に気づくように心がけると、学生時代がもっと有益で、楽しいものになるのかもしれません。
 それから、これは、私自身、巽先生に良くおっしゃって頂いたことでもあるんですけど、自身のプロジェクト構築に関しては、たくさん失敗したり、ダメ出しされたり、リジェクトされたりして、「打たれ強く」なっておくのが重要なのだと教えて頂きました。本当にその通りだと思います。現在もダメ出しやら失敗やらの連続である私自身は、地味~に凹む性質の人間なので、「打たれ強く」なれているとは思えませんが(笑)、しかしながら、この教えは、どなたにとっても、どのような状況下でも、有益だと思います。打たれ強いというのは、自ら修正し、改定していく技術の向上でもあるのでしょうから、今後ほどなく社会人となられるであろう『パニカメ』の皆さんに、申し上げでおくべきメッセージとして、伝達させて頂きたいと思います。
 最後に、メッセージというよりは、感謝としての意味合いが強くなってしまうのですが、そして、言語化すると、凡庸になってしまうのですが、ゼミの同窓や、仲間の存在は、年年歳歳、歳歳年年、より有難く感じられるようになるということも、申し上げておきたいと思います。ご指導頂いた先生方については、言わずもがなですけれども、わたしは大学院時代に出会った同窓の仲間に、多くを教えられ、助けられ、いまでも刺激を受け、鼓舞され続けています。そして信を置く者が同業者である幸運を痛感しています。きっと、この巽先生/佐藤先生のゼミの皆さんも、同じ思いを強くなさっておられるのではないでしょうか。このインタビューも、そうした場を支えるゼミ活動の一環であると拝察しますので、その僥倖に感謝しつつ、お答えを閉じさせて頂きたいと思います。長きに渡り、楽しいお時間を頂戴して、どうも有難うございました。

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