[海老原先生インタビュー]『ポストヒューマン宣言』—Maniacなポストヒューマンたち

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2021 年 8 月に『ポストヒューマン宣言 SF の中の新しい人間』を出版された、巽ゼミ OB の海老原豊先生にインタビューを行いました。本インタビューでは、『ポストヒューマン宣 言』を執筆された経緯から、ポストヒューマンと「狂気」について伺っています。今 SF の 中でもホットな話題である「ポストヒューマン」についてということで、SF 好きは必見で す! 最後には巽先生や小谷先生との思い出も語って頂いていますので、巽先生・小谷先生 ファンの方も必見です<(_ _)>
編集部の池田が制作したPDF形式の記事はこちらから!↓↓↓

1. 『ポストヒューマン宣言』はいかにして書かれたか?

——『ポストヒューマン宣言』を執筆するに至った経緯をお聞かせください。

『ポストヒューマン宣言』(小鳥遊書房)

海老原:大学院の時に小谷先生から評論の仕事を一本頂きました。その後、日本SF作家クラブがやっているSFの評論賞に応募したらそれが優秀賞となり雑誌に載りました。この二本が学生中に書いた商業評論だったんです。そのあとかれこれ十五年くらい、年に一本か二本か評論の仕事をちょこちょこしていて、だいぶ溜まっていたのでそろそろ形にしようかなと思い、二年くらい前から書き直しをしていました。出版社に持ち込む時はもう出来上がったものを持ち込むと話が早いということを聞いたので、とりあえず一冊分くらい原稿を書き、前書き・目次も全部つけて、まず巽先生にご相談ということでメールで送りました。それで以前SF関係で仕事をしたことがある小鳥遊書房さんを紹介してもらい、編集者の高梨治さんに同じ原稿を送ったら「出しましょう」という二つ返事で引き受けて頂きました。それからとんとんと出たって感じですね。

——ということは、かなり前から『ポストヒューマン宣言』の内容はあたためていたということですか?

海老原:今までは来た仕事を返していました。そういう時は作家で企画がくるんですよね。よく書いていたのが『ユリイカ』なんですが、『ユリイカ』だと「映画が出るからその映画の原作を特集しよう」とか、「新作が出るかその作家の特集をしよう」ってことで作家論をよく頼まれて書いていたんですね。それが溜まっていったのと、ウェブなどで書き散らかしてたものもありました。一から全部書くのもしんどかったので、前書いたものを書き直し、整理していたら「これはポストヒューマンで区切れば十章くらいになるな」と思ったんです。そして実際にそれが十章一冊分になったという感じですね。

——『ポストヒューマン宣言』はどのような方に読んでもらいたいですか?

海老原:やっぱり一番はSFが好きな人ですね。わりと古い作品から新しい作品まで、小説のみならずさらに映画やマンガも含めて広く論じているので、SF好きの人には読んでもらいたいと思います。
 映画についていえば、十ある章の中で四つ、『エイリアン』、『マトリックス』、『ターミネーター』、AI映画を扱っています。まあまあな分量で論じているので、映画が好きな人にも読んでもらいたいです。SFにしぼると読者はそこまで多くないので、映画にも広げた方が売れるかなっていうのもあります。『ターミネーター』はビッグバジェットのアクション映画で、研究や評論ではそれほど語られてない気がしたので、一章まるまる論じているところは売りっちゃ売りですね。
 あともうひとつの読者像に研究者がいます。最近、ポストヒューマン、トランスヒューマン、人間拡張ということで、人間に腕や足をつけたり頭にチップを埋め込んだりという研究がやられている。アメリカだとシリコンバレーの企業やイーロン・マスクの出資する研究所が実験をしています。「そういう実験をすることは倫理的にどうなのか?」という話ももちろんあり、人間拡張にまつわる思考実験や哲学・倫理学的な問いを考えるうえでSFは有用だと思うので、理系寄りの人にも読んでもらいたいと思っています。

——『ポストヒューマン宣言』はアメリカの作品だけでなく日本の作品にも言及していますが、アメリカ文学の枠組みにはとらわれない本ということでしょうか。

海老原:修士までしか大学院にいなかったので、「アメリカ文学やってます!」と言えるほどの知識はありません。私は研究者でもないし専門家でもないんですが、じゃあ何ができるかというと、読んだ本の批評を書くことはできます。批評対象は文学っていうよりはエンタメ寄りです。とはいえエンタメだからといって面白くないわけでも価値がないわけでもない。そこは大学の研究者との棲み分けかもしれないですね。求められているものも違うということで。
 ただ、巽先生の『アメリカ文学史のキーワード』や習った文学史の知識、大学院でやった批評理論などが根底のところでは残っています。その上にのっかっているのは個々の作品と批評なわけです。

2. 「ポストヒューマン」とは何か

——私が本書を読んでいて思ったのはポストヒューマンの定義はかなり広いということです。すべてのSF作品にポストヒューマンが出ていると言っても過言ではないような気がしたのですが、実際のところいかがでしょうか。

海老原:ご指摘の通り、広いですよね。体に新しい機能をつけたり、半分をロボットにしたり、人工知能をインストールしたり、典型的なものも扱ってますが、「え、それも?」と思われるようなものも含めて広くやってます。広くやると見えてくるのは、本質的・抽象的な部分です。突き詰めていくと、古くからある精神と身体の二項対立的なものが見えてきて、どこにでもポストヒューマン思想は読んでもいけるかなって気付きました。デカルトまで遡ってもいいしプラトンまで遡ってもいいし。西洋の話ですが、どこまで遡っても、入れ物としての体とそれを操る精神という人間の二重性はあります。精神が入れ物をアップデートする、またアップデートされた入れ物がさらに精神をアップデートするという競合関係は、文学部の純文学っぽいものにも見えるんですね。その辺はおっしゃる通りです。ポストヒューマンを広く捉えるメリットとしては時代・場所を超えて広く論じられることですが、デメリットとしては抽象化しすぎているのではないかという懸念があります。

3. “Maniac”なポストヒューマン

——今回のパニカメのテーマは“Maniac”です。『ポストヒューマン宣言』で言及されている作品には狂気的なシーンがあったりすると思うのですが、ポストヒューマンという枠組みの中で狂気というものはポストヒューマンに影響を与えているのでしょうか?

海老原:狂気というと、自分が狂気と思っていないところが狂気な気はしますよね。皆さんもそうですが私もアメリカ文学を勉強していたので、太平洋の向こう側のアメリカを見ていくわけですよね。ここからアメリカは距離があるから向こうのマニアックさには気づく。ただ我々のマニアックさは、逆に見てみないと分からない。最近CNNを見ると、アメリカの学校ではコロナ対策のマスクつけるかつけないかで議論というか喧嘩が起こっているんですよ。マスクをつけて学校に行く子に向かって、マスクをつけないで来ている子供と親が怒鳴ったり。教育委員会みたいなところでも議論が起こり、本当に真っ二つに割れている。何でこんな些細なことで喧嘩しているのかなって思うんですが、彼ら彼女らなりのロジックがあって、自分たちの大事なものを守りたいということが根底にある。向こう側の人にしてみればすごく当たり前に行われていることだと思うんですが、太平洋のこちら側からしたらある意味で狂気に見えるんですよね。
 それで、シリコンバレーのお話をさっき出しましたが、新興テックベンチャーみたいにIT産業をのし上がっていった人たちの中には、色々な思想的な影響を受けて、人間的な体をテクノロジカルに改変すれば人間の限界を超えられるよね、とプリミティブに信じてる人たちがいるんです。「寿命脱出速度」というのがあるんですが、人間が老いるそのペースよりも早く人間の寿命を伸ばすことができれば、事実上人間は死なない、という。一年間かけて寿命が二年伸びる薬を開発できれば、投資した一年分で二年伸びるので、実際死ななくなるじゃないですか。まあそれは絶対ありえないんですが。要はそういう研究を真面目にしていて、冷凍睡眠したりとか頭にチップ埋め込んだり、そういう文脈でポストヒューマンだとかトランスヒューマンだとか結構真面目に言うんです。それはまあ海のこっち側から見ていると完全にある意味狂気の人だと思いますよね。
 そしてそれはずっと遡って行くと、すごくピューリタン的というか宗教的なものと繋がっているんじゃないかなと思います。マスク論争もそうだし、あるいはポストヒューマンを実現するようなテクノロジーへの投資でもそうですが、アメリカの人たちは当たり前のようにやっている。でもちょっと距離を置くとおかしいと思える。なんで彼らは当たり前のようにやっているかというと、昔から連綿と宗教で当たり前化されてきたある種の狂気が内在化されているというのはあるのではないでしょうか。
 ポストヒューマンっていう思想自体、狂気の産物だと思います。私自身はアメリカ的なポストヒューマンの思想それ自体を文字通り信じて考えるかといえば、そんなことはありません。人間はいずれ死ぬだろうし、寿命も超えられないだろうし、どれだけ体をいじったってそれにも限界はある。こんな風に向こうの人にとっての理想を「狂気」として括弧づけして、ファナティックでファンダメンタルな神がかった思想だと思って私は受け入れています。
 ただ当然向こうの人たちにとってみれば、我々が当たり前のように思っている考え方こそ狂気かもしれません。例えば「なぜ日本の国民は何も言わずにみんな朝から晩までマスクつけてて、誰もいない屋外でもマスクつけてて平気でいられるの?」って向こうの人からしたら思うかもしれないし。我々もマニアックな狂気を常識や当たり前として思って生きているのかなって思うので、ポストヒューマンは括弧つきの狂気だと私は考えるけれども、だからといって私が正気かというとそういうわけでもないっていう話です。

——ポストヒューマンを書いている側は、それを狂気だとは全然思っていないという可能性があるということですよね。

海老原:そうですね。巽先生や色々な人が言っているわけですが、白人が入植した時アメリカという場所は厳しい場所でした。厳しい中で宗教的理念を持って建国したので、常に目の前の現実の厳しさが、正反対の天国的というか聖書的な理想郷と常に二重写しになっている。聖書を持ちながら、現実の荒野をそこが理想の地だと思って……でも、絶対理想の地のわけないじゃないですか。現実の厳しさと理想の素晴らしさというのは常に二重写しになっていて、現実が厳しければ厳しいほど、だからこそいいんだというようなレトリックがずっとアメリカの文学の中であります(American Jeremiad)。キング牧師や大統領のスピーチにも端々に出てくる「こんな局面だからこそ」という謎のレトリックです。これもまた、アメリカ的な狂気だとは思います。
 ポストヒューマンの「こんな我々のちっぽけな肉体だからこそ、未来への可能性があるんだ」という思想には、現実の厳しさと理想の素晴らしさが不思議に同居する、アメリカ建国以来の連綿と続くレトリックが見いだせるのではという話です。文学史を学ぶと、文学とはあまり関係のなさそうなSFを読んでいても、様々な繋がりは発見できます。 

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