[西山祥・映画批評2022]Ba. Nishiyama or: How I Learned to Stop Working and Love the Film

巽ゼミ30期OG・パニカメ25号編集長の西山祥さんによる映画レビュー企画・第二弾!!キングコング=巨大猿を"見つめる"ことで、「アメリカの夢」(Panic Americana27号テーマ)に潜む「欲望」を暴き出した力作。氏の昨年の論考「『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)~ハードボイルド・女性性賛歌としての可能性~」とあわせてどうぞ!!

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巨大猿とアメリカの夢

猿にまつわる奇譚

三重県伊賀市にある猿野(ましの)という地域には、名前のとおり、猿が出る。猿は食べ物を求めて民家に入り込み、猟友会の人間に見つかって銃口を向けられると、まるで祈るように、懇願するように、両手を胸の前ですり合わせる。だから、猟師は猿を撃てなくなってしまうそうだ。私が三重に帰省したとき、この話を「事実として」母から聞いた。母は同僚から聞いたと言い、母方の祖母も同じ話を40年前に聞いたと言った。ところが、この猟師がどこの誰なのかは不明であるうえに、「猿 銃 拝む」とグーグル検索すると全く同じ話が滋賀県の集落でも兵庫県の六甲山でも語られているため、私はこれを田舎版・都市伝説のようなものだと考えている。言い方を変えればhoax、つまり「ほら話」である。ところで、私の地元は山に囲まれた盆地で、暗くなってから国道を走ると、鹿や猪、狸、アライグマ、ヌートリア、ハクビシンなどが木々の間から黄緑色の目を光らせているのだが、このほら話において、人の前で手を合わせて「祈る」のはほかの野生動物ではなく、猿でなければならない理由があるように思える。例えばアライグマが手を合わせて祈っていたらちょっとかわいいかもしれないが、それならただアライグマかわいいね、で済む話であって、母が厳かに私に話して聞かせることはなかっただろう。

創作において、猿は人を惹きつける。推理小説の始祖エドガー・アラン・ポーの短編「モルグ街の殺人」(1841)における殺人事件は人間の動作を模倣するオランウータンによって引き起こされるし、W. W.ジェイコブズの短編「猿の手」(1902)の干からびた猿の手はホラー作品のアイテムとして格段の不気味さを放つ。「キング・コング」における島の先住民の信仰の対象であり白人にとっての見世物としてのコング、「猿の惑星」シリーズにおける支配者としての猿人、「2001年宇宙の旅」(1968)で地球史上初めて道具を使った猿、「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」(1981)でナチスに雇われた男に仕込まれた猿、「12モンキーズ」(1995)の革命組織の名前、「パイレーツ・オブ・カリビアン」シリーズにおいてキャプテン・ジャック・スパロウと同じ名をもつ不死身の猿ジャック、そして今年公開された「NOPE/ノープ」(2022) のチンパンジーを思い返してみても、猿は特段の引力をもっている。

なかでも、キングコングは20世紀の猿映画史上に巨大な巣を築いた。1933年のメリアン・C・クーパー監督のキング・コング」が公開して以来、2度リメイクされたほか、アメリカでは「コングの復讐」(1933)や「キングコング2」(1986)、日本では東宝の「キングコング対ゴジラ」(1962)など、多くの続編や派生作品が作られた。21世紀に入ってからも、コングの映画はハリウッドで3本作られた。ピーター・ジャクソン監督による2005年のリメイクでは、コングと女優アン(ナオミ・ワッツ)がロマンチックな一夜の逃避行を楽しむ。ジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督の「キングコング:髑髏島の巨神」(2017)では、アメリカがベトナム戦争から撤退した翌日に髑髏島に赴いた軍人パッカード(サミュエル・エル・ジャクソン)が、コング討伐をベトナム戦争の延長戦とみなす。アダム・ウィンガート監督の「ゴジラvsコング」(2021)では、コングが永遠のライバルであるゴジラと香港でボクシングを繰り広げる。

ここで、シリーズの原点である1933年制作「キング・コング」のあらすじを確認する。1930年代、大恐慌下のアメリカで、映画監督カール・デナムは新作を撮るにあたって、制作会社から「観客はロマンスを求めている」と言われる。そこで彼は、街で万引きを働いていた若い娘アンを女優としてスカウトし、撮影スタッフとともに地図に載っていない孤島「髑髏島」を目指す。上陸後、彼らが発見した先住民は、島に棲む巨大な猿をコングと呼び、部族の娘を生贄として捧げ、巨大な壁でその居住空間を隔てることで猿と共存していた。しかしやがてコングは壁を破壊して村に侵入し、先住民を踏みつぶし、ブロンドの女優アンを連れ去る。ジャングルの中で恐竜などのほかの巨大生物やコングと戦ったことで撮影隊メンバーの大部分が死亡するが、船員のジャックはアンをコングから助け出す。監督デナムは爆弾を仕掛けることによってコングを捕獲し、ニューヨークに運ぶ。ブロードウェイの劇場で鎖につながれ、見世物になったコングは、記者たちが焚くフラッシュにあてられて鎖を破壊し、アンをその巨大な手の中に握ってエンパイア・ステート・ビルに上る。飛行機に銃撃されたコングはビルから落ちていく。

フリーク・ショーの座長デナム

巽孝之
『恐竜のアメリカ』

「キング・コング」における人間、特に白人男性とコングとの立ち位置に、見る/見られる、観客/見世物、植民者/先住民の構造を見ることはたやすい。キングコングはもともと髑髏島に暮らす先住民たちが神として崇める対象であり、コングの暮らす森と集落との境界を巨大な壁で隔離することでそれぞれの生活空間を保持してきた。しかし、未開の地を求めてやってきた白人の介入によって状況は一変する。ここに、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(1902)に基づく映画「地獄の黙示録」(1979)のような、植民地主義の暴力性を見出すこともできるだろう。そして、この支配者/被支配者という関係は1976年版と2005年版のリメイクにおいても一貫して共通する構造である。「キング・コング」作中で映画撮影のため髑髏島に赴くカール・デナムは、どんな手段を使ってもいいから、嘘でもいいから、観客になにかすごいものを見せたい、という見世物小屋の興行師根性をむき出しにしている。アメリカ史におけるこの「暴いて見せること」に対する執着は、巽孝之の『恐竜のアメリカ』(1997)に指摘されてきたとおりである(98-111)。

アメリカ建国以前に目を向けてみると、17世紀の冒険家キャプテン・ジョン・スミスがインディアンに処刑されそうになったとき、パウハタン族の娘ポカホンタスによって「身を投げ出して庇われた」と喧伝し、18世紀には啓蒙主義者であり建国の父であるベンジャミン・フランクリンが自身の自伝において多くの(必ずしも事実ではない)演出や「誤植(erratum)」の訂正を行った。南北戦争後の「金メッキ時代」の作家マーク・トウェインのほら話(hoax)や、黒人奴隷ジョイス・ヘスを「161歳のジョージ・ワシントンの元乳母」と偽って喧伝した見世物興行師P.T. バーナムのやり口は、制作会社や観客の要請に応えようとする映画監督デナムの興行師熱に通じている。小人や大男、体がつながった双子や珍獣などを出し物とするフリーク・ショーは、1840年ごろから大衆娯楽文化として人々の好奇心を惹きつけたが、1940年代には、奇形を生物学的な研究の対象とする動きへととって代わられた。しかし、バーナムのような詐欺に近い見世物文化が廃れたわけではない、と巽孝之は述べる(『恐竜のアメリカ』113)。なぜなら、20世紀以降の映画産業は、失われゆく種族を発掘してメディアによって保存し、見世物にすることで消費者の欲望をかきたててゆく構造を受け継いでいるからである。

「キング・コング」(1933)は、まずストップモーションアニメでコングが動く映像を作ってスタジオのスクリーンに投影し、そのスクリーンの背後や前方に俳優たちを立たせて再度撮影を行うリア・プロジェクションの手法をとっている。これによって、ストップモーション・アニメーションと実写の人間を一つの画面に映すことができる。このとき「キング・コング」という映画の観客である我々は、コングの映っているスクリーンを見上げるデナムの撮影隊を映したスクリーンを見ていることになり、これはもはや映画内映画内映画である。製作者による視覚効果演出のためのアイデアの結晶としてのリア・プロジェクションによって、見る主体/見られる客体という概念がこれほどまでに前景化された結果、デナムの「見せたい」という暴力的な夢は、一観客としての我々にまで伸びてきてしまったのだ。

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