[巽孝之氏エッセイ]フラッシュ・ダンス-または本塾アメリカ文学専攻の起源-

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How Can We Know the Dancer from the Dance?
Or, the Origin of Keio University’s Literary Americanists

  “Maniac”と聞くや否や思い出すのは、アメリカ東海岸版サンフランシスコと言われるペンシルヴェニア州ピッツバーグである。同地には1986年夏のコーネル大学留学時代にカーネギーメロン大学に学ぶ友人の招きで初めて訪問し、 21世紀に入ってからは 2011年秋に国際会議のため再訪した。つまり、そこに住んでいたわけでもなく、たった二度ほど同市を瞥見したにすぎない。アメリカ文学史的には、共和政時代の同市出身作家ヒュー・ヘンリー・ブラッケンリッジがブラックユーモア長編小説『当世風騎士道』(1792年)を発表し、世紀転換期の原フェミニスト作家ウィラ・キャザーが短編小説「ポールの場合」(1905)で舞台の一つに設定したことはあまりにも有名だが、実際同地に足を運んでみなければ、そこがモダニズムの女帝ガートルード・スタインやポストモダニズムの芸術家アンディ・ウォーホルともゆかりが深いことは知らないままに終わったろう。

 しかし、いまピッツバーグと共に想起されるのは、むしろそんな文学史的文化史的背景など全く預かり知らなかった時代の印象に尽きる。
 留学前年、フルブライト留学生として準備中の 1983年の都内で、私は一本のアメリカ映画を見た。エイドリアン・ライン監督がジェニファー・ビールス演じるダンサー志望の女性労働者アレックスを主人公に据え、低予算ながら全世界で一億ドル以上の収益を上げた映画『フラッシュ・ダンス』(1983年)が、それだ。ストーリーは実話に基づいているらしいが、極々単純。プロのダンサーを目指すヒロインが、昼間はピッツバーグの鉄工所の溶接工として、夜はキャバレーの官能的パフォーマーとして働きながら、やがてダンサー養成所の試験を受け、ブレイクダンスを取り入れた斬新な演技により見事合格を果たすまでを、挫折あり恋ありの味付けで展開していく、これは典型的な「アメリカの夢」の物語である。アメリカ留学直前、 28歳の私にとっては、そこで描かれた「アメリカの夢」が単純であればあるほど、心に迫るものがあった。愛読する水野英子のロック漫画『ファイヤー!』( 1971年)とどこか通じるものを含んでいたことも、魅力の一因かもしれない。そして、同作品を彩るのが、表題そのままの曲以上に、マイケル・センベロ作詞作曲になるヒットソング “Maniac”なのである。

Locking rhythms to the beat of her heart
Changing movement into light 
She has danced into the danger zone 
When the dancer becomes the dance
It can cut you like a knife, if the gift becomes the fire 
On a wire between will and what will be 
She's a maniac, maniac on the floor 
And she's dancing like she's never danced before 
リズムを心臓の鼓動と同期させ、
動きを光に変えながら、
踊る彼女はとうとう危険地帯にさしかかるーー
そこではダンサーがダンスそのものと化す。
ナイフのような切れ味だ
もしも才能が炎となって燃え上がり、意志と結果の綱渡りを演じるものならば。
彼女は無我夢中、フロアさえあれば取り憑かれる
そして自由自在に踊りまくる

さて、ここで注目すべきは、マイケル・センベロの歌詞のうち下記の部分 “She has danced into the danger zone When the dancer becomes the dance “すなわち「踊る彼女はとうとう危険地帯にさしかかるーーそこではダンサーがダンスそのものと化す」と試訳した部分が、明らかにモダニズムの先覚者ウィリアム・バトラー・イエーツの名詩「学童に混じりて」”Among School Children”(1928)末尾の詩行「踊り子と踊りをどうして切り離しえようか?」“How can we know the dancer from the dance?”を反映していることだ。この一節は、北米文芸評論の大御所エドマンド・ウィルソンが象徴主義文学論『アクセルの城』(1931年)において「もののみごとに掌握され不滅化された人生の一瞬」( a moment of human life, masterfully seized and made permanent)と高く評価するばかりか、続いてイギリスの主導的批評家フランク・カーモードが象徴主義的批評の白眉『ロマン派のイメージ』(1957年)でロマン派的伝統特有の芸術有機体説( art as organicism)の達成として分析するに至る。そして、こうした先行する解釈はいずれも慣習に従い「踊り子と踊りをどうして切り離しえようか?」を修辞疑問として解釈し、そこに踊り子と踊りが溶け合った典型的な超越的瞬間を見出すことで一致していた。以後、イエール脱構築派の領袖ポール・ド・マンが第二著書『読むことのアレゴリー』(1979年)で「踊り子と踊りをいかに切り離せようか?」の文法と修辞を脱構築してみせるが、ここではあえて立ち入らない。

 今年 2021年 3月に 38年間の勤務の果てに慶應義塾大学を退職して思うのは、さて「踊り子と踊りをいかに切り離せようか?」からの類推で「学者と学問をいかに切り離せようか?」という命題は今日成り立つのかどうか、ということである。昨年以来長引く日本学術会議会員任命拒否問題は、かつてなら学者と学問が密接に融合していた時代に終止符を打とうとする暴力だったように思われるからだ。最新の監修書『脱領域・脱構築・脱半球――二一世紀人文学のために』(小鳥遊書房)の序文で、私はバベルの塔と象牙の塔について語ったが、それは単純に懐古趣味に駆られたためではない。手前味噌で恐縮だが、父の上智大学名誉教授巽豊彦は、生前においてはオックスフォード運動を主導したジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿と切り離せない生涯を送った。同大学で私が師事したのは北米ピューリタン研究の権威秋山健教授だったが、学会などで私がコットン・マザーなどの話をすると、年長の学者から「君の背後に秋山先生の姿が見え隠れするからツッコミにくくなるね」と言われたこともある。人間であるはずの学者があまりにも一定の学問的主題に無我夢中で没頭するあまりに、すなわち “maniac”になるあまりに、学問そのものと見分けがつかなくなる瞬間は、確実に存在したし、これからもなくなることはないだろう。

 こんなことを考えたのは、本塾英米文学専攻におけるアメリカ文学専攻の立役者とも呼ぶべき大橋吉之輔教授のエッセイ集『エピソード』(トランスビュー)が、最後の愛弟子と呼ぶべき愛知教育大学教授・尾崎俊介氏によって巧みな編集を施され、ついに日の目を見たからである。
 たんにアメリカ作家を対象にしていたという事実だけを取るなら、戦前から戦後にかけての本塾英米文学専攻には、ポーやホイットマンに造詣が深い学匠詩人・野口米次郎(ヨネ・ノグチ)やエリオットやパウンドと同時代意識を持って活躍した同じく学匠詩人・西脇順三郎が教壇に立っていた。西脇の教え子で古代中世英文学の泰斗・厨川文夫は、イギリス文学史の研究と教育を通じてその体系を作り上げた。しかし、イギリス文学史とは全く異なるアメリカ文学史の体系を意識し、その研究・教育によって一つの専攻が成り立つ水準にまで高めた人物は、やはり大橋吉之輔(1924-1993)をおいて他にない。そして大橋吉之輔の名は、何よりロスト・ジェネレーション作家の親分格シャーウッド・アンダソンに無我夢中になっていくプロセスと切っても切れない。それは、あらゆる権威を嫌った大橋が、戦後の解放を歓迎するに至った気分とも無関係ではなさそうだ。「それは、新しい意味の狂気であり、溺れてみる価値のある狂気のように思われた」(『エピソード』 350-51頁)。

 というのも、彼は戦後、出版社勤務を経て玉川大学に専任を得た 1949年の段階で、横浜市立経済専門学校(横浜市立大学の前身)に勤め、のちに東京大学教授となる大橋健三郎(1919-2014)と出会い、二人で力を合わせ今日の日本アメリカ文学会の原型を組織するからだ。本塾英米文学専攻に移籍し日吉キャンパスで教鞭を執るようになるのはその3年後の 1952年。日本アメリカ文学会の正式発足はその10年後の 1963年。それは、まずはアメリカ文学研究への関心が先行してアメリカ文学教育へ身を投じていった歩みだろう。
 私が日本アメリカ文学会東京支部の月例会へ初めて足を運んだのは 1979年 4月だが、その時にはすでに両者は「両大橋」の通称で仰ぎ見られていた。当時はまだ北米のアメリカ文学者が来日するのが珍しい時代だったせいか、あれは 1980年ごろ、北米ポー研究の大御所バートン・ポーリン教授が上智大学で講演した時、両大橋がそろって挨拶にみえられたのを覚えている。まさか自分自身が、その約十年後の 1989年に大橋吉之輔の後任に指名されるとは、夢にも思っていなかった。
 だが、公正を期すならば、ここで大橋吉之輔による本塾アメリカ文学専攻の成立にあたり、具体的には年少の同僚であった山本晶教授の驚くべき意志と決断が作用していた事実に触れなくてはならない。発端は、1960年代半ば、日吉勤務であられた大橋吉之輔教授に、某国立大学への移籍の話が持ちかけられたことにある。山本教授は、もともと学部から大学院にかけては廚川先生に師事し、1961年に完成された卒論ではエスペラントを中心にした世界語の問題を、1963年に提出された修士論文では古英語のロマンス『タイアのアポロニウス』を中心にした統語法の問題がテーマだった。若き山本教授は、アメリカ文学どころか、伝統的な古代中世英文学者としての第一歩を踏み出していたのだ。ところが1963年4月、修士課程修了と同時に語学担当助手として本塾に勤務されることになり、日吉で大橋教授と同室になったことで、アメリカ文学ともアメリカ文学研究とも関係が深まっていく。折も折、大橋教授に国立大学への移籍の話が舞い込み、これを慶應義塾最大の損失と考えた山本教授は、矢も楯もたまらず、一世一代の決心の上、廚川教授へ書状を認めた。「時代の要請としてのアメリカ文学研究」を痛感されたのだという。1965年以前のことである。
 その甲斐あって 1965年に大橋教授は三田へ移籍し、この時初めて、慶應義塾大学文学部アメリカ文学専攻の種子が植えられた。ほどなくして大橋教授自身の要望で山本教授自身が専門をアメリカ文学へ変更し、 1972年には三田へ移籍する。かくして三田のアメリカ文学専任は二名体制となり、その帰結としての環境に、本誌読者諸君は身を置いている。

 このように、いつも起源の物語は面白い。そこには必ず、一定の時代の要請とともに一定の勇断、そしてそれを可能にしたはずの一定の狂気が潜んでいるからだ。その瞬間、踊り手は踊りそのものと化し、学者は学問そのものに化すだろう。それは、慶應義塾大学アメリカ文学専攻においても、例外ではない。

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